第31話 夏の魔法
僕は夏が好きだ。夏は魔法使いだからだ。僕は夏だけに起こる奇跡をいつでも待っているのだ。
綾瀬駅前の裏通りにひっそりとたたずむ小さなビル群の一角に、スタジオREDはある。地元の小さなリハーサルスタジオだ。
ザ・サピエンスのメンバーも、みんな普段は何でもないただのヤンチャな下町の高校生だが、楽器という名のロックの武器を手にするとき、僕らは変わる。時にそれは学校の汚い部室の中で、時にそれは混沌としたライブハウスの中で、そして時にそれはスタジオREDの中で起きていた。僕はナオヤ、カズノリ、杉山、このいつもの三人といるとき、広い広いこの世界に向かって右手で中指を突き立て「ファックユー!」をして、左手でピースマークを突き立て「ラブ&ピース」と叫ぶことができた。
しかし、8月のこの夜に夏が使った気紛れな魔法は、いつもとは違っていた。
この夜、見馴れたスタジオREDの前に集まっていたのは、杉山でもカズノリでもなかった。そこにいたのは新しくドラムで加入することになった元S☆GOのオサダと、カズノリの後釜が決まるまでベースをサポートしてくれることになったドナの二人だった。ナオヤはまだ来ていなかった。
この日、ほとんど初対面のオサダがいることで、僕は会話に困っていた。ベースケースを背負ったドナもオサダにかける言葉を探しているようにみえた。初めに話し掛けてきたのはオサダの方からだった。「ナオヤくんから君たちの曲のデモテープ聞いて練習してきたよ。いやぁ、久々のバンドだけど、俺もバンド辞めて暇だったからナオヤくんに誘われた時は正直嬉しかったよ。宜しくね、増山くん」「あ、まっすぅでいいです。宜しくお願いします。」オサダは背が低くタイのキックボクサーのような体系をしている。オサダはドナの顔とドナの背負っているフェンダーのベースケースをチラッと見た。そしてオサダはドナに「よろしく」と言って拍手をしようと片手を出した。「あ・・、私、サポートで来たドナです。韓国の留学生です。ヨロシク」そう言ってドナはオサダの握手には答えず、ペコっと軽く会釈した。握手を拒んだドナは僕の方をみてニコっと笑った。僕はその笑いの意味が良くわからなかった。
遅れて愛車のモンキーをブンブン鳴らしながらギターケースを背負ったナオヤがやって来た。「あ、オサダさん、どうもどうもヨロシクです!あドナさんも来てくれてありがと!」ナオヤは自分が集めた新しいバンドに対して無邪気にワクワクしているように見えた。
REDの受付でドナは会員証を作った。初めて入る日本のスタジオにドナは興奮していた。マーシャルのギターアンプ、アンペグのベースアンプ、ボーズのスピーカー、それにヤマハのドラム、ドナはその全てを触り、素直に感激していた。そんなドナにオサダは「ドナさん、ドラムは叩いたことある?ちょっと叩いてみなよ」と使い古した自分のスティックをドナに差し出した。オサダはドナに好意があるように見えた。オサダにスティックを差し出されたドナは「・・いい」と冷たく言って自分のベースの用意を始めた。ドナはオサダを好きになれないように見えた。オサダはどちらかと言えば清潔な美男子だが、女性が男性に対して、さしたる理由がなくても本能的に避けたくなることはよくある。ドナは本能的にオサダを、避けるべき人間だと判断していたのではないか。さっきスタジオREDの前でオサダの握手を拒否した後、僕に笑ってみせたとき(こいつ、なんか嫌~い)と心の中で僕に言って苦笑いしていたのかもしれない。
オサダとドナの微妙な距離感で、早くもこのメンバーに不穏な空気が漂い始めていた。その空気を察したナオヤがいつものようにバンドを仕切りだした。「とりあえず何か音合わそうか。え~と、じゃあ・・え~と・・何がいいかなまっすぅ?」「えっ?俺に聞いた?ええ~、んじゃ、ジョニーBグッドでも」
意外なことに、このギクシャクしたメンバーがやるジョニーBグッドは最高だった。ドナのベースも個性的だったし、オサダのドラムもみんなをまとめていた。
問題はその後やったオリジナルだった。
ナオヤは前もってオサダとドナにサピエンスで作ったオリジナルのデモテープを渡していた。そのデモテープの中でドラムを叩いているのは杉山だし、ベースを弾いているのはカズノリだ。ドナはテープの中のカズノリの作ったベースラインに忠実に弾いてくれたが、オサダは杉山のドラムをかなりいじり直してきていた。メンバーが変わったのだから当然、演奏も変わる。それはいいのだが、オサダの独裁的なワンマンにはそれまであった楽しさを削ぐものに思えた。
「ナオヤくぅん、もっと音をはずませてよ!アンプだけじゃなくてエフェクター使って。色がないんだよ、色が」「ドナさんも、ルートばかりドドドってやってないで、もっとベースの展開を気にして。ベースのメロディー、わかる?メロディー」「増山くんもだよ!?サビもAメロも同じ歌い方じゃないか。もっと盛り上げるようにさ。ずっと棒歌いじゃないか」べつに今までのサピエンスでもそういった意見の飛ばし合いというのはよくあったのだが、オサダが一人威張り散らして指図していると気分が悪かった。
それでも僕とナオヤは「まぁ、そういうやり方もありますが」という前提でオサダと意見をかわしながら演っていた。しかし、誰よりも先にイライラの頂点に達してしまったのはドナだった。
ドナはいつか僕に韓国の社会的な習慣を話してくれたことがあった。それは、韓国では、年上の人間を非常に尊重する、という事だ。そんな習慣で育ったドナが自分より一つ年上のオサダにこう言った、「あのね、あなた二人の顔みてごらん。つまんなそうでしょ、楽しくなさそうでしょ、なぜか?あなたの指摘が的外れだから。テキカクじゃない。わかる?私の日本語」突然冗舌に説教しだしたドナにオサダは目を丸めて「あ、はい・・」と情けない声で答えた。そしてドナは続けた、「良いものを作りたいという、あなたの気持ちは正しいよ、でも方法が違う思わない?まっすぅやナオヤくんが作った曲は凄くシンプルです。素朴って言うのかな。例えば日本料理。韓国料理や中国料理みたいにたくさんの調味料使わない方がいいの、味付けは塩だけとか、醤油だけとか、そういうものだと思う、二人の作った曲はそういうもの。わかる?そっちの方がおいしいの。二人ともそれを知ってる、だからあなたの指摘はつまらない事なの」
ドナの言葉にオサダばかりか僕もナオヤも聞き入ってしまった。そしてその時、僕もナオヤも頭の中で、ある2つの共通の決断をしていた。オサダには辞めてもらおうということと、ドナを正式なメンバーにしよう、ということだ。
この夜、夏の魔法はそれまで眠っていた巨大な天使を目覚めさせた。その天使は世界で一番美しいベーシストだった。
次号、「第32話 吉野屋北千住店にて」に続く・・・
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