第22話 恥じた日曜日
僕は昼近い時間に目が覚めた。布団に入ったまま昨日の夜を思い出し、「まずいことしたなぁ」と声にしないで呟いた。昨日ドナの手を握ってしまった、好きな女と手を握るのはいい事なのだが、「俺、あんたの手握るよ」って宣言してからっていうのがまずい。あの後、駅に着くまで二人とも無言だった。電車を降りるときに手を離したのだが、僕から離したのか彼女から離したのか覚えていない。ドナが居候しているリコの家まで一緒に歩いて、何か話をしたが、その内容が思い出せない。何かとても嫌な話をして、決定的な事を言った気がするが思い出せない。まだ頭が寝呆けている。
布団に入ったまま携帯電話を見た。美恵ちゃんからメールが来ていた。[昨日はライブだったんでしょ!?おつかれさん!今日は何時まで寝てるかな?起きたら遊びましょ]そんな美恵ちゃんのメールを見て、昨日の夜ドナと歩きながら話した内容を思い出した。美恵ちゃんの事だ。カラオケスタジオでブーちゃんがドナに余計なことを言っていたらしく、ドナは僕の恋人について聞いてきた。ドナは「福原さんから聞いたよ、まっすぅ、彼女いるってね、いないような気がしてた」と言って少し笑った。不思議な笑い方に見えた。ドキっとした。嫌な話だと思った。「いないような気がしたって、どういう事さ、俺が女の子にモテなさそうってか?」と僕はツッコミをいれるように言った、「そうではなくてね、まっすぅ、好きなもの何でも私に教えてくれる、バンドの事、音楽の事、昔の事、学校での事、楽しい事、ワクワクする事、でも恋人の事は話さないですから、いないのと思ってました」今まで僕はドナに美恵ちゃんの話をしたことがない。そんな話はしたくなかった。どんな言葉を返すべきか頭が判断を下してくれなかった。慌てるわけでもなく、しらをきるわけでもなく、やけくそになるわけでもなく、ただどうしていいかわからなかったのだ。「それが、どうした?」なんてそっけない事を言ってしまった。「いや、どうしたわけでも・・・、相手から話したがらないことを、聞くのはよくないね・・・」別れ際にドナはそう言った。どういう意味かわからなかった。僕はまるで中学生の幼い恋愛をしているみたいな、そんな惨めな気分になった。
美恵ちゃんからのメールは後で返そう、そう思い、僕はやっと布団から出た。ウーロンハイ3口の二日酔いなのか、体がダルい。台所で何か飲みたかった。階段の脇に母の部屋がある。絵の具の香りが漂う、壁のないその部屋で、母はいつものように窓辺の大きなテーブルに向かって仕事をしていた。僕は母が仕事を休んだところを見たことがない。日曜日も正月もクリスマスも仕事をしている。母の仕事は絵を描くことだ。アニメーションの背景画を描いている。僕の気配を感じて背中を向けながら母は言った「今起きたの?もう昼すぎだよ」うん、おはよう、僕はそう言って階段を下りていった。母は僕が毎日何をしているのか知らない、僕がどこでバイトしているのか知らない、僕がバンドをしていることも知らない、母は僕のやることをあれこれ聞いてこないのだ。関心がないわけではないだろうが、僕の好きにやらせていたいのだろう。そして、何があっても動じない。僕が中学生の頃、他校の奴らに袋たたきにされ、顔中を腫らせて帰ってきたときも「大丈夫?」とか「どうしたの?何があったの?」とか言わなかった。ただ一言「あんた・・・、ちゃんとやりかえしたか?」と聞いてきただけだ。僕が警察に捕まり、保護者の引取りが来なければ家に帰してもらえなくなったとき、母は車に乗って警察署まで来てくれ僕を釈放させてくれたが、警察署の出口で「あんたは、歩いて帰ってきな、家まで歩いて帰ってくるの、今日のことを色々考えながら歩きなさい」と言って一人で車に乗り帰っていった。「反省しろ」とか「罰を受けろ」とかではなく「自分で考えろ」と言いたかったのだろう。そんな母に育てられた僕は、何か嫌なことがあったとき、落ち込んだり、反省したりする前に、まず考えて、自分の頭の中でネガティブな事を消化してから、後悔なり反省なりをするという癖がついた。いつも、考えることで気が楽になれた。だから僕はいろんなことを考え続けながら成長していった。
台所でお茶を飲んでいると、デジョとチャップが寄ってきた。デジョは僕が幼稚園の頃から一緒に暮らしているメスのシーズー犬で、チャップはデジョの娘だ。僕は冷蔵庫から魚肉ソーセージを取り出し、デジョとチャップにあげた。デジョは、僕が幼稚園児の頃「妹とか弟がほしぃぃぃ!!」と毎日毎日叫んでいた僕をみかねて、父が静岡の知合いの家から譲り受けてきて我が家にやってきた。そのときの僕は「わぁ!ワンちゃんの妹だ!」といって歓喜した。僕は、ほとんど物心がついた頃からずっとデジョと一緒にいる。小学生の頃、僕が泣いて帰ってきたときも「もう、泣くなよ」と言うように僕のそばに来てくれ涙を舐めてくれたし、友達と喧嘩をして不機嫌に帰ってきたときも、「そんなにカリカリするなよ」というように和ませてくれた。小学校の入学式の日のも、中学校の卒業式の日も、高校入試に合格した日も、家に帰れば必ずデジョはいた、僕にとっての本物の妹だ。チャップは、僕が小学校の夏休みが終わりそうな日に、産まれた。近所の佐藤さんの経営するペットショップで、同じシーズー犬のオスと、デジョが交配をして産まれた純血の犬だ。デジョは5匹の子犬を産んだ。チャップの背中には矢印の模様があり、それが気に入って、一緒に暮らすことになった。そのとき産まれたチャップの兄弟達は、佐藤さんのペットショップへと買われていった。
僕は、テーブルの上に置いてあった、ゆで卵を手に取り、殻を不器用に剥がして、少し口に運んだ。家には仕事をしている母と、僕とデジョとチャップしかいみたいで、静かだ。時計の針は2時を回っているが、僕はまだ半分眠っているような感じだ。僕は起きたばかりの時間が苦手だ。血圧の低い父の遺伝だろう。父はタクシーの運転手の仕事をしている。夕方起きてきて、朝方帰ってくる。だから僕はあまり父との思い出はない。よその家庭の子供は、夜に父との時間を過ごして成長していくが、僕の家には夜、父親はいなかった。その変わり、朝は一緒にいることが多かった。寝起きで、僕の一番嫌いな時間帯だ。仕事帰りの朝に、父は自分の友人を連れてくる。見ず知らずの父の友人のおじさんたちを見ながら食べる朝食の時間が僕は大嫌いだった。僕はそのトラウマから、朝食をあまり食べなくなった。父のことは嫌いでもないが好きでもない、軽蔑すわけでもないが尊敬するわけでもない。いつもなら父は部屋で寝ている時間だが、今日は休日なので、昼からパチンコ屋にでも行っているのだろう。
僕は居間に行き、テレビのスイッチを押した。競馬番組、芸能人のグルメ旅行番組、ゴルフ中継、どこのチャンネルも日曜日の午後を象徴するようにけだる番組ばかり放送している。僕はテレビを消した。居間には首から上だけのマネキンが飾ってある。姉がヘアーカットの練習に使っているマネキンだ。姉もどこかに出かけているみたいで、家にはいない。江北高校という、足立区の高校の中でも比較的レベルの高い高校を卒業した姉は、高田馬場にある日本美容学校という美容師の専門学校に通っている。
僕は美恵ちゃんにメールの返事を送った、[おはよう、今起きたよ、すぐに支度して千住に行くよ]僕は先輩から2万で買い取ったスカッシュというホンダの古い原付にまたがり、千住へ向かった。その日、僕は美恵ちゃんと千住にあるいろいろな店に行き、日が暮れると、レストンでスパゲッティーを食べ、ゲームセンターでプリクラを撮って、荒川の土手で軽くキスをした。美恵ちゃんとのデートには刺激がなく、ワクワクしないし、ドキドキもしない。愛おしくは思うが、恋しくない。そんな関係の子が本当に恋人と呼べるのだろうか?美恵ちゃんとは別れるべきだと思った。しかし、デートの帰り際、美恵ちゃんが自分の家の前で僕の背中に腕をまわし抱きついてきた時、別れ話をしようという思いが失せてしまった。こんな感情は「恥だ」と思った。このとき僕は誰よりも自分自身を恥じたのだ。
僕は美恵ちゃんを見送ったあと、カラオケスタジオに向かった。その日は僕のバイトの日でなかったが、ドナがいるかもしれないと思ったのだ。昨日の夜のことでドナが僕に対してどう思ったのかなんて、もうどうでもいい。1秒でも早くドナに合いたかった。ドナと合うことで、美恵ちゃんに感じていた「恥」を正当化したかったのかもしれない。
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