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2006年9月28日 (木)

第22話 恥じた日曜日

僕は昼近い時間に目が覚めた。布団に入ったまま昨日の夜を思い出し、「まずいことしたなぁ」と声にしないで呟いた。昨日ドナの手を握ってしまった、好きな女と手を握るのはいい事なのだが、「俺、あんたの手握るよ」って宣言してからっていうのがまずい。あの後、駅に着くまで二人とも無言だった。電車を降りるときに手を離したのだが、僕から離したのか彼女から離したのか覚えていない。ドナが居候しているリコの家まで一緒に歩いて、何か話をしたが、その内容が思い出せない。何かとても嫌な話をして、決定的な事を言った気がするが思い出せない。まだ頭が寝呆けている。

布団に入ったまま携帯電話を見た。美恵ちゃんからメールが来ていた。[昨日はライブだったんでしょ!?おつかれさん!今日は何時まで寝てるかな?起きたら遊びましょ]そんな美恵ちゃんのメールを見て、昨日の夜ドナと歩きながら話した内容を思い出した。美恵ちゃんの事だ。カラオケスタジオでブーちゃんがドナに余計なことを言っていたらしく、ドナは僕の恋人について聞いてきた。ドナは「福原さんから聞いたよ、まっすぅ、彼女いるってね、いないような気がしてた」と言って少し笑った。不思議な笑い方に見えた。ドキっとした。嫌な話だと思った。「いないような気がしたって、どういう事さ、俺が女の子にモテなさそうってか?」と僕はツッコミをいれるように言った、「そうではなくてね、まっすぅ、好きなもの何でも私に教えてくれる、バンドの事、音楽の事、昔の事、学校での事、楽しい事、ワクワクする事、でも恋人の事は話さないですから、いないのと思ってました」今まで僕はドナに美恵ちゃんの話をしたことがない。そんな話はしたくなかった。どんな言葉を返すべきか頭が判断を下してくれなかった。慌てるわけでもなく、しらをきるわけでもなく、やけくそになるわけでもなく、ただどうしていいかわからなかったのだ。「それが、どうした?」なんてそっけない事を言ってしまった。「いや、どうしたわけでも・・・、相手から話したがらないことを、聞くのはよくないね・・・」別れ際にドナはそう言った。どういう意味かわからなかった。僕はまるで中学生の幼い恋愛をしているみたいな、そんな惨めな気分になった。

美恵ちゃんからのメールは後で返そう、そう思い、僕はやっと布団から出た。ウーロンハイ3口の二日酔いなのか、体がダルい。台所で何か飲みたかった。階段の脇に母の部屋がある。絵の具の香りが漂う、壁のないその部屋で、母はいつものように窓辺の大きなテーブルに向かって仕事をしていた。僕は母が仕事を休んだところを見たことがない。日曜日も正月もクリスマスも仕事をしている。母の仕事は絵を描くことだ。アニメーションの背景画を描いている。僕の気配を感じて背中を向けながら母は言った「今起きたの?もう昼すぎだよ」うん、おはよう、僕はそう言って階段を下りていった。母は僕が毎日何をしているのか知らない、僕がどこでバイトしているのか知らない、僕がバンドをしていることも知らない、母は僕のやることをあれこれ聞いてこないのだ。関心がないわけではないだろうが、僕の好きにやらせていたいのだろう。そして、何があっても動じない。僕が中学生の頃、他校の奴らに袋たたきにされ、顔中を腫らせて帰ってきたときも「大丈夫?」とか「どうしたの?何があったの?」とか言わなかった。ただ一言「あんた・・・、ちゃんとやりかえしたか?」と聞いてきただけだ。僕が警察に捕まり、保護者の引取りが来なければ家に帰してもらえなくなったとき、母は車に乗って警察署まで来てくれ僕を釈放させてくれたが、警察署の出口で「あんたは、歩いて帰ってきな、家まで歩いて帰ってくるの、今日のことを色々考えながら歩きなさい」と言って一人で車に乗り帰っていった。「反省しろ」とか「罰を受けろ」とかではなく「自分で考えろ」と言いたかったのだろう。そんな母に育てられた僕は、何か嫌なことがあったとき、落ち込んだり、反省したりする前に、まず考えて、自分の頭の中でネガティブな事を消化してから、後悔なり反省なりをするという癖がついた。いつも、考えることで気が楽になれた。だから僕はいろんなことを考え続けながら成長していった。

台所でお茶を飲んでいると、デジョとチャップが寄ってきた。デジョは僕が幼稚園の頃から一緒に暮らしているメスのシーズー犬で、チャップはデジョの娘だ。僕は冷蔵庫から魚肉ソーセージを取り出し、デジョとチャップにあげた。デジョは、僕が幼稚園児の頃「妹とか弟がほしぃぃぃ!!」と毎日毎日叫んでいた僕をみかねて、父が静岡の知合いの家から譲り受けてきて我が家にやってきた。そのときの僕は「わぁ!ワンちゃんの妹だ!」といって歓喜した。僕は、ほとんど物心がついた頃からずっとデジョと一緒にいる。小学生の頃、僕が泣いて帰ってきたときも「もう、泣くなよ」と言うように僕のそばに来てくれ涙を舐めてくれたし、友達と喧嘩をして不機嫌に帰ってきたときも、「そんなにカリカリするなよ」というように和ませてくれた。小学校の入学式の日のも、中学校の卒業式の日も、高校入試に合格した日も、家に帰れば必ずデジョはいた、僕にとっての本物の妹だ。チャップは、僕が小学校の夏休みが終わりそうな日に、産まれた。近所の佐藤さんの経営するペットショップで、同じシーズー犬のオスと、デジョが交配をして産まれた純血の犬だ。デジョは5匹の子犬を産んだ。チャップの背中には矢印の模様があり、それが気に入って、一緒に暮らすことになった。そのとき産まれたチャップの兄弟達は、佐藤さんのペットショップへと買われていった。

僕は、テーブルの上に置いてあった、ゆで卵を手に取り、殻を不器用に剥がして、少し口に運んだ。家には仕事をしている母と、僕とデジョとチャップしかいみたいで、静かだ。時計の針は2時を回っているが、僕はまだ半分眠っているような感じだ。僕は起きたばかりの時間が苦手だ。血圧の低い父の遺伝だろう。父はタクシーの運転手の仕事をしている。夕方起きてきて、朝方帰ってくる。だから僕はあまり父との思い出はない。よその家庭の子供は、夜に父との時間を過ごして成長していくが、僕の家には夜、父親はいなかった。その変わり、朝は一緒にいることが多かった。寝起きで、僕の一番嫌いな時間帯だ。仕事帰りの朝に、父は自分の友人を連れてくる。見ず知らずの父の友人のおじさんたちを見ながら食べる朝食の時間が僕は大嫌いだった。僕はそのトラウマから、朝食をあまり食べなくなった。父のことは嫌いでもないが好きでもない、軽蔑すわけでもないが尊敬するわけでもない。いつもなら父は部屋で寝ている時間だが、今日は休日なので、昼からパチンコ屋にでも行っているのだろう。

僕は居間に行き、テレビのスイッチを押した。競馬番組、芸能人のグルメ旅行番組、ゴルフ中継、どこのチャンネルも日曜日の午後を象徴するようにけだる番組ばかり放送している。僕はテレビを消した。居間には首から上だけのマネキンが飾ってある。姉がヘアーカットの練習に使っているマネキンだ。姉もどこかに出かけているみたいで、家にはいない。江北高校という、足立区の高校の中でも比較的レベルの高い高校を卒業した姉は、高田馬場にある日本美容学校という美容師の専門学校に通っている。

僕は美恵ちゃんにメールの返事を送った、[おはよう、今起きたよ、すぐに支度して千住に行くよ]僕は先輩から2万で買い取ったスカッシュというホンダの古い原付にまたがり、千住へ向かった。その日、僕は美恵ちゃんと千住にあるいろいろな店に行き、日が暮れると、レストンでスパゲッティーを食べ、ゲームセンターでプリクラを撮って、荒川の土手で軽くキスをした。美恵ちゃんとのデートには刺激がなく、ワクワクしないし、ドキドキもしない。愛おしくは思うが、恋しくない。そんな関係の子が本当に恋人と呼べるのだろうか?美恵ちゃんとは別れるべきだと思った。しかし、デートの帰り際、美恵ちゃんが自分の家の前で僕の背中に腕をまわし抱きついてきた時、別れ話をしようという思いが失せてしまった。こんな感情は「恥だ」と思った。このとき僕は誰よりも自分自身を恥じたのだ。

僕は美恵ちゃんを見送ったあと、カラオケスタジオに向かった。その日は僕のバイトの日でなかったが、ドナがいるかもしれないと思ったのだ。昨日の夜のことでドナが僕に対してどう思ったのかなんて、もうどうでもいい。1秒でも早くドナに合いたかった。ドナと合うことで、美恵ちゃんに感じていた「恥」を正当化したかったのかもしれない。

次号、「第23話 幸せ街道 100万号線」に続く・・・

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2006年9月24日 (日)

第21話 ドナの左手

ジッパーホールのライブが終わり、僕らはライブハウスから数分のところにある「ゆめや」という中規模な居酒屋で打ち上げをした。ヨウ君の予約しておいた居酒屋だが、打ち上げというのはそのときになってみないと人数が決まらないもので、予定していた人数より少ない場合もあれば、出演バンドメンバーの他に、その日ホールにいた観客もノリで来たりして、予定人数の数倍の人が来ることもある。ヨウ君はこの日、20人用の予約を取っていたが、実際は30人くらいが「ゆめや」での打ち上げに参加した。台湾人のクイメイや、マレーシア人のディアンは大学の学生寮で生活していて「ゆめや」には来なかったが、ドナや中国人のリンと韓国人のスンリは「楽しそうだから」というノリで、打ち上げに来ることになった。

ヨウ君が予約した宴会場は30人でギュウギュウになってしまう程の広さで、金曜日ということもあり店内はガヤガヤとにぎわっていた。宴会場には、ついさっき知り合ったばかりの人や、全然知らない人などもいる。そんな中で僕はカズノリとドナとリンとスンリと、宴会場の入り口付近で通路にはみ出ししながら固まっていた。僕とカズノリはこういう場になると、必ず一緒に会場の端にいるようにしている。二人とも酒が苦手だったからだ。あまり、中心的なグループにいると、無理に酒を飲まなきゃいけなくなるので、僕はカズノリといつも端っこで仲良くコーラを飲むのだ。

この日、初めて知ったが、ドナは酒が好きで、しかも強い。まだ18歳だが、いくら飲んでも自分を見失うほどベロンベロンになったりしない。しかし、酔うと会話に韓国語が混ざるようになる。つまり、同じ韓国人のスンリにしかわからないような言葉を発する。たとえば、僕が「どう、今日楽しかった?」と聞くと「エエ チョンマル イゴッジ メウ モッギョセヨ」と真顔で僕に言ってくる。スンリやリンがいるときのドナはいたって普通の女子大生という感じにみえた。僕が今まで見たことのないドナだ。こんなふうに笑うんだ、こんなふうに喋るんだ、こんなふうに酔っぱらうんだ、僕の見たことのないドナはとても可愛らしかった。カズノリもそんなお茶目なドナが気に入ったみたいで、リンとスンリにはあまり話しかけず、ドナにばかり話しかけていた。それは僕も同じだ。スンリは典型的な朝鮮顔でルックスが悪いし、リンも個性的な顔をしている。ドナだけがずば抜けていた。

「ドナのお母さんはモデルだったんだぜ」僕がそうカズノリに紹介すると、ドナの親友のスンリが付け加えた「舞台女優もやってたです、ね」ほぉ~とカズノリが言った。僕も初めて知った事だ。「そう、だからオンマは、あ、だから母は、私にヨベウ、あ、私に女優になってほしかったみたい」女優かぁ、ドナならなれるんじゃないの?と僕が言った。「とても、大変な仕事、何かを演じる事、私はできない」ドナは首を横に振りながら言った。「いや、でもドナさんは間違いなく大物になるよ」とカズノリが言って「わかる、俺もそんな気がする、そんなオーラだよな」と僕も言った。ドナは首をかしげながらサラダを一口食べた。リンが言った、「じゃぁ、私がドナの変わりに女優になるわ」僕とカズノリは無視した。「ドナは将来どうなりたいの?」と僕が聞いた。ドナはしばらく考えながら「う~ん、サピエンスのファンのおばさんになるかな」と冗談を言った、「おぉ!いいねぇ!」と僕とカズノリは声を合わせた。「じゃぁ、私も!」とリンが言ったので「・・・ふぅ~ん」と僕とカズノリはまた声を合わせた。

僕とカズノリのドナに対する態度が露骨になってきたので、僕は気を使いスンリに話しかけた、「スンリは、何になりたいの?」スンリはその細い目を輝かせて言った、「世界中の人とコミュニケーションをとれる人、そういうのになりたい」彼女達の目線は常にグローバルな世界にあった。大学で国際文化という学科を専攻しているのにもきっとわけがあるのだろう。ドナも、本当は世界中の地下鉄から軽い足取りで街を歩くのが夢、と言ったし、リンも、ドイツ語やフランス語やロシア語やスペイン語も話せるようになりたいと言った。僕は「じゃぁ、今一番行きたいところは?」と3人に聞いた、すると3人とも意外なことに「沖縄」と言った。日本に詳しいアジア人は、沖縄に憧れをもっているようだ。3ヵ月後に僕らは高校の修学旅行があり、今2つの候補地があがっている、沖縄と北海道だ。夏休み前に生徒の投票でどちらに行くかが決定される。僕はこの時、沖縄に投票しようと決めた。僕は北海度で旨いものをたくさん食べたかった、しかし、ドナたちが行きたいという沖縄にどうしても行かなくては、と思ったのだ。そしてドナのために、沖縄で写真をたくさん撮り、お土産をたくさん買ってこようと決めた。

ドナはロンドンとかニューヨークとか、そういうところが似合いそうだけど、と僕が言った。「ロンドンもニューヨークも行きましたよ。ロンドンは、天気が悪いし、食事おいしくなかった、だから少し残念。ニューヨークには色んな物があって、一日中歩いた、好きな街」ロンドンの天気が悪いからと言ったが、ドナは南国の強い日差しよりも、ロンドンのように厚い雲に覆われて今にも雨が降りそうなところの方が似合っていると僕は思った。どこに行きたい?とドナは僕とカズノリに聞いた。カズノリはメキシコと言った。確かにカズノリはメキシコ人っぽいとみんなで笑った。僕はジム・キャロルの「マンハッタン少年日記」とい小説が好きだったので「ニューヨーク」と言おうとしたが、やめた、「俺は韓国のインチョンに行きたい」ドナの目を見てそう言った。

その後、僕らの輪に、すっかり酔いつぶれたナオヤがやってきて、ドナの兄さんがバンドをやっていた話や、ドナはギターもベースもピアノもうまいという話をして盛り上がった。ナオヤは「今度スタジオに遊びにきなよ」とドナを誘った。その日、僕もカズノリも苦手なお酒を少しだけ飲んだ。

居酒屋「ゆめや」を出て、僕は打ち上げに参加した全員と握手をし、ドナとリンとスンリと共に駅に向かった。ナオヤはかなり酔っていたが愛車のモンキーで帰っていった。カズノリと杉山はヨウ君の車に乗って帰っていった。僕らは御茶ノ水の駅で、亀戸に住んでいるというリコと別れた。青戸に住んでいるというスンリとは北千住まで僕とドナと一緒に千代田線に乗った。スンリと別れた後、僕とドナは伊勢崎線で五反野まで向かった。

夜も12時を過ぎようとしていて、車内はガラガラだった。僕はウーロンハイを2口飲んだだけだったが、顔が真っ赤になった、電車の揺れで頭がフラフラしていたし、こめかみの血管がドクドクと脈を打っていた。僕はドナの小さな肩によりかかった。しかし、僕はその瞬間我にかえり、「あ、ごめん・・」と言ってすぐに体を起こした。そんな僕を見て、ドナはまるでわが子にささやきかけるように「お酒弱いねぇ」と言って僕の頭をなでた。僕はその瞬間、ウーロンハイで酔っているのか、ドナに酔っているのか、わからなくなった。今すぐドナに抱きつきたくなった。少しの理性が僕をそうさせなかった。汗が出てきた。僕は今、汗臭くないだろうか?それにしてもドナはいい香りがする。香水の香りではない。美しい女だけが持つ特別な体臭だ。どんな香水にも負けない、世界一の香りだ。その香りが僕から理性を奪おうとする。僕はそれを必死で我慢する。けど、もう限界だ。ドナの左手は僕の頭をなで続けている。これはただの優しさなのか?彼女の母性本能からなのか?僕をどう思っているのか?どうにかなりそうだし、どうにもならなさそうだ。やっとドナは僕の頭から手を離した。少しの沈黙が二人の間を流れた。「ドナ・・・俺・・・手・・・握るわ」「え?うん、いいよ」僕は揺れる車内の椅子に座りながら、下を向きながらドナの左手を握った。ドナの左手はやわらかくて、あたたかかった。そして、二人とも手を握ったまま、何も言わなくなった。この電車が永遠に五反野駅に着かなければいいのに、そう思った。

次号、「第22話 恥じた日曜日」に続く・・・

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2006年9月22日 (金)

第20話 御茶ノ水の夜

御茶ノ水は音楽の街だ。クラシック専門店からデスメタル専門店まで様々なジャンルのレコード屋があり、民族楽器から最新のデジタル楽器まで各種楽器屋が数え切れないほどある。

ジッパールホールも楽器屋の2階にあるライブハウスだ。ライブ前に簡単なリハーサルがある。本番での出番順に各バンドが一曲ずつ演奏してみて、楽器やアンプ、スピーカー、照明などのチェックをする。僕らのバンドの出番は一番目だ。どんなオーディエンスが来るかわからないライブでのトップバッターはやっぱり好きじゃない。前に地元のライブハウスで、僕らの後に登場するヒップホップバンドを目当てにきた客が大勢いる中でのライブを経験したことがあったが、あれは悲惨だった。

トップバッターの僕らがリハーサルを終えたは、開場まで1時間も前だ。リーダーのナオヤだけ残し、僕とカズノリと杉山は時間潰しにレコード屋と楽器屋へでかけた。中古楽器屋でカズノリと杉山がギターやベースやドラムやエフェクターなどに夢中になっている時、ドナから電話がかかってきた。ドナは開場までまだ時間があるが御茶ノ水の駅に着いたから向かっていいか聞いてきた。「駅まで迎えに行くから、一緒に行こう」と僕が言うと、チケットに地図かいてあるから迎えに来なくても行けるよ、とドナは言った。「いいからいいから、そこで待ってなさいな」そう言って電話を切り、店を出た。カズノリと杉山はマーシャルのアンプの前で何かずっと語っていた。

駅にはドナと、ドナの女友達4人が僕を待っていた。ドナが僕に紹介してくれたのは、つりあがった細い目をしたスンリという韓国人と、丸顔で背の小さいクイメイという台湾人と、口元にシワがあり老けた顔をしていてテンションの高いリンという中国人と、目と口が異様に大きく浅黒い皮膚をしたディアンというマレーシア人だ。このメンバーで合コンを開いたら間違いなくドナの圧勝だと思った、がもちろんそんな事は言わなかった。僕は4人に、自分は増山という名前の高校生でドナは僕のバイト先のカラオケ屋の親戚だとか、そういう簡単な挨拶をした。中国人のリンが「マスヤマさん、ドナのボーイフレンドね」と言ったので僕はリアクションに困った。そうさ、俺はドナのボーイフレンドさ、と威勢を這って言うべきか、友達だよと言うべきか、一瞬だがすごく困惑した。そしてドナはどんな表情をしているのかと僕がドナに目をうした瞬間、ドナはリンに言った「ボーイフレンドなんて言い方、今の日本ではない」・・・増山はただの友達よ、と言われなくて安心した。「ボーイフレンド」という言葉が古いというドナの一言で、みんなの話題は外国人留学生らしく、日本語の表現について、に変わった。彼女達は皆、かなりの日本語レベルを持っている。日本語の本も読めるらしい。だが、それは言語としての知識で、会話としての知識ではない。綺麗に発音できていても、日本人が聞くとすぐに外国人だとわかる。彼女達が日本語で会話すると、微妙なニュアンスが僕にはわかりづらかった。きっとこういうことで、彼女達は日々フラストレーションを溜めながら日本での生活をおくっているのだろう。相手の日本人の言っていることもわかるし、自分が言いたいこともはっきりしている、でもそれをうまく伝えられない、そんな悩みを抱えているはずだが、ドナは一度もそんな悩みを僕に話したことはない。彼女達は楽しそうに会話をしているが、そんな光景を見ながら僕は何かさびしい気持ちになった。この時、また、僕とドナとの間にある大きな壁を感じてしまったからだ。「そろそろ行きましょか」僕がそう言って皆が歩き出した。日本人の男が一人、韓国人の女が二人、中国人と台湾人とマレーシア人の女が三人、そんな6人で街を歩くと不思議な感がした。

ジッパールホールに向かう途中で中古楽器屋から出てきたカズノリと杉山に出会った。僕が異国の女性を5人も連れて歩いていたので、2人は目を丸くした。「おいおい、どういうナンパの仕方をしたらこんな状況になるだ」カズノリが僕に小声で言った。カズノリも杉山もドナの存在をまだ知らなかったのだ。カズノリと杉山と出会ったことで、また一から自己紹介をしなくてはならなくなり、そこでさらに時間がかかった。そして日本人の男1人、韓国人の女2人、中国人と台湾人とマレーシア人の女が3人に、さらに日本人の男が2人加わり、ぼくらはますます不思議な団体となり、ジッパーホール目指して靖国通りを行進した。カズノリと杉山はまだマーシャルのアンプの話をしながら歩き、中国人のリンと台湾人のクイメイは中国語のような言葉で何かを話し、韓国人のスンリとマレーシア人のディアンは日本語と英語で何かを話しながら歩いている。僕はみんなの群の後方でドナと日本語についての話をしながら歩いた。日本語って難しい?と僕はドナに聞いた。「日本語って難しい?俺は日本語しか知らないから簡単なのか難しいのか、そういうのが実感としてわかんないんだ」「う~ん、ハングルと日本語は発音も似ているし、文法もほとんど同じ、でもね、だからと言って、やっぱり日本語は難しい、完璧になるまで何十年もかかるでしょうね」「そっか、でも完璧っていうのは日本人の俺にだって無理だよ、言葉に完璧なんてないんじゃないかな」「そうね、その通りと思う、言葉は生きてるからね、生きているものに完璧はない、人間と同じ」確かにドナの言うとおりで、生き物である以上、人間には完璧は無い。だけど、僕にとってドナは限りなく完璧に近い女だ、と思った。「俺、ドナの話が好きだな」僕は唐突にそんな事を言ってしまった。ドナは理解できないという感じで笑いながら言った「私の話?何で?」「何でって、それはわかんない、ん~、でも楽しいんだもん、あ、楽しいっていうのはオカシイって意味じゃないよ」「バンドをしてる時の楽しさと同じ?」「違う、そういう感じじゃない、みんなでバカ騒ぎしているときの楽しさとも違う・・」「よくわかんない」と言ってドナは笑った。「俺も」と言って僕も笑った。気がつくと中国人のリンが僕達をみてニヤニヤしていた。マリちゃんみたいな女は世界中にいるんだな、と僕はリンのニヤニヤを見て思った。

ジッパーホールに着くと、開場時間はまだなのにすでにホールにお客が入っていた。予定よりも多くお客が来たため、外で人だかりができてしまっており、もう中に入れたそうだ。ナオヤはヨウ君と話をしていた、「何話してるの?」と聞くと、先日、ユーコトロピアでのライブで支配人のジュリーに「マンネリしてる」と言われた事をヨウ君に相談していたらしい。そういうのは誰が悪いって問題じゃないからね、いつかは当たる壁だよ、とヨウ君は僕とナオヤを交互に見ながら言った。本番前にするような話じゃない、と僕は不快に思い二人の元を離れた。今日のイベントでライブする地元の高校生バンドの人達へ駆け寄った。「よろしく~」なんて言いながらみんなと握手をした、その中のギターを抱えていた男が僕に言った「全部オリジナルなんだってね、俺達はコピーだからさ、すげーと思うよ、足立区のバンドは進んでるよ」御茶ノ水の方が凄いよ、楽器屋もレコード屋も足立区にはこんなにないもん、何のコピー?「ブルーハーツとハイロウズ」へぇ~、かっこいいね。僕はそう言ったが内心バカにしていた。僕もブルーハーツはもちろん大好きだけど、バンドでブルーハーツばっかりやっている奴らは腐るほどいたからだ、コピーはコピーでしかない、そんなの面白くない、こいつらはロックじゃない、そう感じた。「じゃあ」と言って僕は地元高校生バンドから離れた。カズノリと杉山が二人で話をしていたので、僕はそこに加わろうと近づいたが、二人はまだアンプの話をしていた、こいつらは一日中楽器の話ができる変人だと思い、二人から離れた。すでに開場時間を迎えていて、狭いジッパーホールが人で埋まろうとしていた。その中で一際異色を放つ5人がいた。ドナたち、法政大学留学生御一行だ。5人の中で、唯一ドナだけはライブハウスの雰囲気がよくにあっていた。他の4人は何だかとてもはしゃいでいるように見えた。日本に来てまだこんな所で遊んでいなかったのだろうか、そんな風にドナ達を見ていると、ドナと眼が合ったので、僕はドナ達の所に駆け寄った。「何か飲まないの?チケットの半券をあそこのバーカウンターに持っていくと飲み物もらえるよ、ビールとかジュースとか」そう言うとドナ以外の4人は皆でゾロゾロとバーカウンターに向かって歩き出した。ドナは飲まないの?僕がそう言うと「私はあとでいい、それより、まっすぅこんなにたくさんの人の前で緊張しないの?」「俺も今日こんなに人が入ると思ってなかった・・・、緊張はするよ、いつもする、でもステージに立って、こんばんわぁザ・サピエンスでぇすって言ってドラムのカウントが始まったらそっからはもう緊張しないんだ。だから気にしない。」「緊張を気にしないなんて、変なの」とドナは言った。ステージの上に杉山が登るのが見えた。もう出番だからまたね、と言って僕はステージに向かった。

ステージの上で準備を終えたナオヤが、杉山、カズノリ、僕、の順番で「OK?」といいながら頷く、ライブが始まる直前の一瞬の静寂と緊張感がホール中を支配する。皆がナオヤに頷くと僕はマイクに向かって言う「御茶ノ水の皆さん、こんばんわぁ、ザ・サピエンスでぇ~す」間を入れずに杉山のカウントで爆音が狭いライブハウスに響き、ドラムの振動で地面が揺れる。そうなると僕はもう増山といういつもの高校生ではなくなる。それはナオヤもカズノリも杉山も同じだ。普通の悪ガキ高校生4人がロックンロールという化け物に変身する。観客の顔は見えない、照明のせいではない、何も目に入らなくなるのだ、ただ、踊り叫び奇声を発する観客のエネルギーだけはよく感じる。狭いホールの酸素が徐々に薄くなるのがわかる。僕らは曲と曲の間には一回もMCを入れずに、全10曲を疾風のごとく駆け抜けた。最後の曲が終わる頃、ホール中にたくさんの人間が発する汗の匂いがたちこめていた。最後の曲が終わった、「ありがとう~バイバイ~この後も楽しんでくれよぉ~」と僕が言う、そして身体中から魂が抜けるように、僕らからロックンロールの化け物が消えていく、視界が広がってきた、観客の顔を見れるようになってきたのだ、一番初めに目に飛び込んだのは小さなビールの瓶を持ったままホールの隅にいたドナの姿だった。観客から拍手と口笛の音が聞こええる。ドナの友達の4人も「わぁぁ」と拍手をしている。ドナはビールの瓶を上に掲げて、僕に微笑んだ。僕は一瞬、ドナにだけ手を振ってステージを降りた。

次号、「第21話 ドナの左手」に続く・・・

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2006年9月21日 (木)

第19話 靖国神社の昼下がり

飯田橋駅で総武線を降り、神楽坂口から外濠公園の緑を横目に少し歩くと、ドナの通う法政大学市ケ谷キャンパスの超高層タワーが見えてきた。「ボアソナードタワー」という名前のその巨大なタワー型校舎はこの年の4月、つまりドナの入学とともに完成したばかりで、その巨大なシンボルは太陽の光を受けてピカピカと輝いていた。ドナは今頃何をしているんだろう、と思いながら腕時計を見た。まだ1時半だ、きっとあのタワーの中で授業を受けているんだな、と勉強をしているドナの姿を想像した。

タワーのすぐ脇に靖国神社が見えた。7月の午後の日差しを避けるかのように僕は靖国神社の木々の中のベンチに座った。

今日、御茶ノ水でのライブにドナがくる。ライブは7時からだが、リハーサルなどの関係で2時間前の5時にはライブハウス入りする予定で、僕はその前にドナと会っておきたいと思い、授業を抜け出して、ドナのいる法政大学まで来てしまった。ナオヤや他のメンバーには「先に現場入りしとくよ」とだけ言ってきてあるが、彼らは僕がこんな時間に何しに来たのかは知らない。むしろ僕自身、ここで何をしているんだかよくわかっていなかった。ドナと会うといっても、彼女の授業がいつ終わるのかわからない。とりあえず彼女にメールを送る事にした。[今、授業中?俺は先走って、もう着いちゃった。で、御茶ノ水にいてもしょうがないから、靖国神社に来てベンチでボーっとしてるよ。ドナは授業いつ終わる?もし終わってから時間があったら少し会いたいな・・]

メールを送信して20分ほど経ったがまだ返事はない。きっと授業中なんだろう。靖国神社のベンチからボアソナードタワーの先っぽがよく見えた。そういえばドナはあの大学で何を学んでいるんだろうか。留学生対象のコースで国際文化学部部の言語コミュニケーションという科目を専攻しているらしいが、それがどんなものなのかは知らなかったし、そもそも大学というものも、留学というものもよくわかならい。ただ、ドナは相当な優等生なんだ、ということは、巨大なボアソナードタワーを見たときから何となくそう感じた。あの巨大なタワーは何かを象徴していた。

神社にいると心が落ち着き、安心する。それはきっと日本人にしかわからない安心感で、欧米人が教会の中で感じる安心感とは少し違うだろうと思った。俺は日本人なんだな、という当たり前の事を、心ではなく身体中の細胞が噛み締めている、そんな感じだ。ここらへんには日本を象徴するものがいくつか集中している。靖国神社もそうだし、皇居もある、それに国会議事堂や日本武道館だ。あのボアソナードタワーからは東京タワーも見えるだろうし、冬場の空気が澄んでいるときには富士山も見えるだろう。ドナにとってここは外国で僕は外国人だ、僕は自分がなに人だとかドナがなに人だとか、そんなことどうでもいいのだが、ドナはそういう事をどうでもいいと思うだろうか?国とはなんだ、人種とはなんだ、人間とはなんだ、愛とか恋ってなんなんだ、と一人で盛り上がっているとポケットの携帯電話が振動した。ドナからだった。僕は「・・はい」というとてもマヌケな感じで電話に出てしまい、すかさずドナは「ヨボセヨ~」と、わけのわからない韓国語でかえした。この時が初めてドナと電話をした瞬間だ。そんな記念すべき初電話の第一声が「・・はい」「ヨボセヨ~」とお互いにアホみたいだ。「次の講義ね、休講だから、3時半まで、お暇、会うこといいよ。まっすぅ、神社のどこ?」僕は時計を見た。3時半まであと1時間30分近くある。僕が、ドナのわかるところで待ち合わせようという提案をし、遊就館という建物の前でドナと会うことにして電話を終えた。「何しにきたの」なんていきなり言われなくてホッとした。たぶん僕はドナから「忙しくて会う暇なんかないよ」と言われるよりも、「何しにきたの?」と言われたほうがショックだったと思う。学校まで押し掛けて来やがって、と思われたらどうしようかと何より心配していた。

遊就館という建物の前には馬と鳩と犬の銅像があった。そしてその向かいには戦闘服を着た少年の銅像があった。僕はこの神社が戦死者・戦没者を祭る、特殊な神社だということは、このときまだ知らなかった。一年後に新しい総理大臣がここを参拝し、東アジア諸国内のちょっとした国際問題の舞台になるなんて、このときは誰も知らない。かつての日本、大日本帝国が朝鮮半島を武力制圧していた軍人が神として祭られている神社だとは知る由も無かったのだ。

10分くらいして、ドナの姿が見えた。手にはビニール袋を持っている。「アンニョ~まっすぅ」と犬の銅像に言った。そんなドナのボケに、「ワンワンワン・・ってばか」と嫌々ながら僕はノリツッコミをしてあげた。カラオケハウスでみるドナとは別人にみえた。普通の大学生のお姉さんって感じだ。ドナはビニール袋からサンドウィッチを一つ僕にくれた。僕たちは木陰のベンチでサンドウィッチを食べた。

たまごサンドを食べながらドナは言った「ここは、自然がたくさんあるね。アジアで一番の都会なのに、大学のタワーからは森も見えるの」皇居のことだろう。あそこは昔、お城だったんだよ。と教えると「江戸城、知ってますよ。私は日本に詳しいもの」と言われた。ドナは頭良いんだね、こんな大きな大学に通えるなんて、「インチョンで日本語の学校を卒業したのでね、日本の大学に留学するは、自然な流れ、頭良いということでもない、ただ、勉強が得意なだけ」ドナはそう言って目を細めて微笑んだ。「まっすぅ、高校は?」と聞かれたので僕は正直に答えた。早退したよ、俺の高校はドナのように何か特別な科目を勉強したりしないんだ、だからモチベーションの持てる授業がないんだ、楽しいから好きなんだけどね。呆れられるかと思って心配したが、ドナはわかる気がする、と言ってくれた「わかる気がする、知りたく無い事、勉強するのは苦労ね、学校の勉強がいつか役にたつんだって先生言わない?」言うよ、毎日言ってるよ、なんの役に立つんだよ、って僕らが言うと、いつか役にたつんだよって、いつかっていつなんだろうな・・。「役に立つとか、たたないとか、そんなのは関係ないのにね、生徒には知りたいことがあって、先生には教えたいことがある、そういうシンプルな関係が大切なんだと思う」俺もそう思うよ、と僕は言いってドナの横顔を見た。そんな事言うなんて、ドナは大学の授業が自分にあっていないんではないかと心配になった。大学でどんなことを勉強しているのか聞こうとしたときに、ドナは今日のライブに話題を変えた。「チケット余ってしまったよ、ごめんね。でも友達4人も行きますよ、同じ留学生対象コースを勉強してる子達。」そうか、外人のお客さんは始めてだ、と僕は言った。無意識に「外人」という言い方をした自分を責めた。「外人」という言い方は、誰か個人を国籍という集団の枠に閉じ込めるような言い方で、ドナの気分を害してしまったのではないかと心配したが、そこまで考えていたのは僕だけだったみたいですぐに安心した。「今日、行ったとき、紹介するね」

よくあるの?っと僕はドナに聞いた。今日みたいに授業が中止になることはよくあるの?「授業というか講義ね、たまにある」へぇ、いつもはそういう時どうしてるの?「友達と話したり、散歩したり、CDを聴いたり、まっすぅ貸してくれるCD、私は好き、勇気出るし、まるで私の何かを認めてくれる、そんな優しさがある」優しいか、俺もそう思うよ、人間の感情をシンプルに刺激し、勇気をあたえる優しさだね、何か悩みをかかえた人に「知るか!勝手にしろ!俺には関係ない、俺は楽しい」って怒鳴るようなね、ほら、親身になって一緒に悩みを共感してほしいっていう人がいっぱいいるじゃん、そういう奴らにはそういった優しさを感じることができない、誰かに共感を求める人間はうっとおしいと思う。そんな僕の話に、そうだね、という感じで頷いた後、目を細めて僕を見ながら言った「まっすぅ、すごくロックンロールを愛しているんだね」

僕はロックンロールを褒める事で、同時にそんなロックンロールの魅力に気付くことができたドナを褒めたのだ。僕は初めてロックンロールを聴いたとき、感動して涙が出た。初めて優しさというものに出会ったからだ。歌の内容がどうだとか、そんなものじゃない。歌の内容で流すような涙は惨めな涙だと知った。ロックンロールはそんなものデコピン程の力でぶっ壊す、そんな痛快な感動を与えてくれる。アイドルグループがしっとりと何かを歌う、それを聴いて涙を流すような女は全てバカだ。ロックンロールはそんな奴らを鼻で笑う。くだらない歌で泣けるような女は感受性がまるで機能していない。ロックンロールは感受性の機能していない女をシカトする、歌の内容がどうのこうの言って涙を流す女をシカトする。ロックンロールはドナのような女にこそ、本当の魅力をみせてくれる。人類がたどり着く最後の感動をみせてくれる。ドナはきっとそんなロックンロールに何かを実感させられたのだろう。

あっという間にドナが戻る時間がきてしまった。大学の入り口の所まで一緒に歩いて行った。ドナは一度振り返り、「またね」と言ってタワーの中へ消えていった。ドナのそんな後ろ姿はどこか頼もしい感じがした。巨大な何かに戦いを挑みに行く戦士のような。

次号、「第20話 御茶ノ水の夜」に続く・・・

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2006年9月18日 (月)

第18話 チャックベリーと宇宙人

「ジッパルホール」という御茶ノ水にあるライブハウスでイベントライブをやることになった。5組の対バンで、他の出演バンドは、僕らの軽音楽部の先輩でインディーズデビューを間近にひかえたヨウくんのバンドと、地元の大学生、高校生バンドだ。ヨウくんのバンドにはファンがたくさんいたし、イベントの主催者もヨウくんだった。つまり、当日はヨウくんのバンドのファンと、地元バンドのオーディエンスで埋まることになる。いってみれば、サピエンスにとっての初のアウェーライブだ。ユーコトロピアのライブの後、ジェリーにダメ出しをされた次の日にナオヤがヨウくんにお願いして申し込んでいたライブだ。

そのナオヤは「今度のライブでの俺たちの存在は、上野動物公園のアライグマみたいな感じかな」と言い、渋谷で買ったというガラス製の水パイプをブクブクやった。「え?どういうこっちゃ?」と僕は言い、ナオヤがブクブクしていた水パイプを横取りし、僕もブクブクした。「上野動物公園に来る人たちはだいたいが、パンダを見にきているんだ。でも、そいつらはみんな帰りぎわにはこう思うんだ、アライグマの方がかわいかったなぁって」僕はそんなナオヤの言葉を聞きながら、ナオヤから横取りした水パイプをブクブクし終わり、ナオヤに言った「つまりあれだな、ディズニーランドに来た人が、ミッキーに会ったことよりミニーちゃんに会ったことの方が感激しちゃうってやつだな。」僕らがそんな頭の悪い会話をしているのは、もちろん、二人がさっきから水パイプでブクブクしているのがマリファナだったからだ。場所はナオヤの部屋だ。この日は二人でサピエンスの今後について、話し合おう、という目的で僕は呼ばれて来たわけだったが、ナオヤが水パイプを買ったと自慢し始めたので、じゃあ、という事で二人してマリファナをやってしまった。もちろん、サピエンスについての真剣な話などできなくなった。

そんなぶっ飛んだ頭で僕はある事を考えていた。ドナの事だ。ドナと出会ってから僕は3回のライブをやったが、ドナはまだ一度も僕らのライブを観にきてくれていなかった。それは当然で、僕がまだ観にきてほしいと誘っていなかったからだ。彼女を誘うのは、なんだか照れくさかった。バンドのボーカルとして歌う僕と、お客としてそれを見るドナ、という場面とその感覚が僕には照れくさく思えたのだ。でも、今回のライブは誘おう、と決意した。彼女の通う大学から、御茶ノ水のライブハウスは近い距離にあった。学校帰りについでに、と気軽に誘える気がした。「ナオヤ、俺は今度のライブに、例の運命の女を誘うよ」マリファナでトロンした目に少し力を入れながら僕はそう言い、ナオヤに目をやった。「あぁ、そう、あぁそうですか」ナオヤはギターを抱えながら面倒臭そうに返事をした。こいつはまだドナという女に出会っていない。つまりこいつは僕より少なくとも3ヵ月は人生のソンをしているだ。僕はそんなふうに思った。

僕はマリファナを一服だけしか吸わなかったので、一時間もするとその酔いから覚めた。夕方5時が近くなると、僕はナオヤの家を出て、そのままカラオケスタジオに向かった。その日のバイトはブーちゃんと一緒にでる日だ。以前はブーちゃんとのバイトの日は憂欝だったが、今はむしろワクワクする。ブーちゃんやマリちゃんがいるときは、僕はドナと二人きりでカラオケ部屋に入り、お話したり、楽器をいじったり、CDを聴くのが当たり前になってきていたからだ。僕もドナも店にお客が来れば部屋から出てきてちゃんと仕事をするので、マリちゃんもブーちゃんも文句や不満を言ったりしない。基本的に店は暇で、僕とドナはほとんどの時間をカラオケ部屋で過ごすようになった。ドナはリコに言われるでもなく自発的にこの店にやってくる。「ドナちゃんは、まっすぅと話をするのが好きみたいだね。」とマリちゃんが僕に言ってくれたことがあった。ドナの正式なバイト先はリコがこことは別に経営している焼肉屋さんだ。ここへは「手伝い」という名目でやってくる。手伝いなので給料明細を添えたちゃんとした給料は貰っていないと言う。それはリコが人件費をケチっているわけではなく、ドナのビザの関係で給料を出せなかったのだ。ドナの所有しているビザは「留学ビザ」という種類のもので、そのビザの所有者が一週間に28時間を超えるバイトをすることは法律で禁止されていたのだ。

午後7時を少し過ぎた頃、ドナが店に来て、ブーちゃんと少し話をした後、僕に「行こ」と声をかける。ドナは清掃用具入れのロッカーからギターとベースを持って、カラオケ部屋に向かう。僕は棚からコップを2つ取り出し、ボタンを押すと樽からチューブをつたってジュースの出てくる機械で、コーラとメロンソーダを入れて彼女の後を追う。僕らのいつものパターンだ。この日の彼女はクリーム色のTシャツに黒のブルゾンと大きなベルトとベロアパンツという服装だった。ドナのファッションはいつもオシャレでロンドン的だ。そのファッションは、僕にドナが韓国人の留学生だということを忘れさせる。彼女が韓国の伝統衣装のチマチョゴリを着てもちっとも似合わないだろうと思った。ドナにおいて「ダサい」と思うものがほとんどなかった。ただ日本語の表現の仕方がたまにダサい時がある。それは日本の若者言葉をほとんど使わない喋り方のせいだ。ドナは韓国にいるとき、「仁川(インチョン)外国語高等学校」という学校に通っていた。ドナはそこで日本語を専攻していたので、知識としての日本語レベルはかなり高いものをもっているが、日本人のように喋れるようになるにはまだまだだった。「サブい」とか「ウザい」とか「っつ~か~」とか「ありえねぇ~」とかそういう最近の言葉使いは学校では教えてくれないのだろう。その変わり、僕でもたまにわからないほどの難しい言い回しをしたりする。例えば「ダルい」と一言で言えることを「セイシンのヒロウを感じます」と言ったりするのだ。僕はドナの言葉が大好きだった。僕より2歳年上ということもあるが、ドナの喋ることには哲学や独特の思想が感じられた。「大人だなぁ」と感じることもあった。

その日も僕はドナにCDを5枚貸した。これまでに20枚以上のCDを貸してきたが、彼女が聴いて気に入らなかったものは次の日には返される。今まですぐに返ってきたのはKISSとシステムオブアダウンとNOFXとデッド・ケネディーズだ。ハードロックやコアパンクは好きではないようだ。この日僕が貸したのは、エディコクランとジーン・ヴィンセントとバディーホリーとチャックベリーだ。ドナもさすがにチャックベリーは知っていたが、CDをちゃんと聴くのははじめてだったらしい。カラオケ部屋でチャックベリーを聴きながら、僕は「ジョニー・B・グッド」や「ロール・オーバー・ベートーベン」や「メイベリーン」などの、あのお馴染みのギターリフの弾き方をドナに教えてもらった。「ロール・オーバー・ベートーベンは宇宙人も聴いている曲なんだよ」と僕はドナに教えてあげた。「宇宙人?」とドナは言った。「そう、昔、NASAの計画でね、人類の文化を代表するような作品を無人の宇宙船に積んで、宇宙の彼方へ飛ばしたんだ。ダビンチの有名なウィトルウィウス的人間の絵とか、バッハの音楽とかと一緒にチャックベリーのロール・オーバー・ベートーベンも宇宙に送られたんだ」僕がそう言うとドナは感激して言った「宇宙人がダビンチやバッハを理解できたでしょうかね・・・。でも、チャックベリーは、きっと宇宙人も気に入るね。」ドナの言葉にウンウンとうなずきながら、そうだろうね、と僕は答えた。「そうだろうね、ロール・オーバー・ベートーベン聴いた宇宙人は地球がどれだけ凄いところかって思うだろうね。」冗談混じりながらも、僕とドナは宇宙人がチャックベリーのロール・オーバー・ベートーベンを聴きながらダンスする姿を想像してワクワクした。

僕は思い出したかのように、「ジッパルホール」のライブチケットをポケットから取り出し、ドナに差し出した。「今度、御茶ノ水でライブやるんだけど来ないか?すごく急なんだけど、明後日なんだ。来れるかな?」一瞬ドナはビックリしたような顔をしたが、すぐに「もちえろん、行きますよ」と言ってくて、チケットを眺めた。「明後日は焼肉屋のバイトは?」ぼくはそう聞いた。「ありますよ、でも、リコさんに休みをもらいます。楽しみですね。」僕は嬉しくなり、ありがとうと言った。ありがとうというのは違うような気がしたが、この時、つい、ありがとうと言ってしまった。「学校から近いですね、学校の友達も連れてきていい?」とドナが言ったので、もちろんと答えた。しかし、チケットは一枚しか持ってきていなかった。自分の事を気のきかない奴だ、思った。ドナの大学の近くのライブなのに、ドナが学校の友達を誘うことを何で想定しなかったんだ、と自分を責めた。僕は急いでナオヤに電話してチケットを何枚か今すぐカラオケスタジオに持って来て、と言った。チケットなんて、当日渡せばどうにでもなったのだが、張り切ってしまった僕はすぐにチケットをドナに渡したかったのだ。

20分ほどしてマリファナ酔いを少し残ったままのナオヤが、愛車のモンキーに乗ってやってきた。店の外で「ありがとう」言いながらナオヤからチケットを5枚受け取った。ナオヤはカラオケスタジオに来たついでだからと、僕が運命の女というドナに合わせてくれ、と言って店の中をガラス越しに覗き込んだ。するとナオヤは凍りついたような顔で僕の方を振り返り言った「う、嘘だろう、あんなのただのゴリラじゃないか・・・」ガラス越しに見えたのはカウンター裏に座ってアホな顔をしながらテレビをみているブーちゃんだった。「ふざけんな!あれはドナじゃねぇ!あれは豚だ!ゴリラでもなんでもいいが、ドナじゃない!」僕はドナとブーちゃんを間違えたナオヤを本気で殴りたくなった・・。「ナオヤ、ドナにあうのはいいけどさ、お前にはみっちゃんという彼女がいることを忘れるな。」と僕は言った。ナオヤには地元の1歳年上のとても美人のみっちゃんという恋人がいた。みっちゃんを忘れるなと忠告したのは、つまりドナに惚れるなという意味だ。美恵ちゃんという恋人がいる僕には説得力のない忠告だった。

ドナがカウンターにあらわれ、コッチを見た。ドナを見たナオヤが「おぉ~」という感激したような声を上げたので、小さな声で僕は「みっちゃん、みっちゃん」と言った。僕が手招きをするとドナが店を出て、僕らの方へ来てくれた。「この人はナオヤ、バンド仲間でギターを弾いている。チケットを持ってきてくれたよ。」そして「みっちゃんという美人の恋人がいるんだぜ」と忘れずに付け加えた。ナオヤは「どうも・・・」と言った。緊張しているように見えた。ドナはナオヤに「チケットありがとう」と言った。ナオヤが何も言わないので、ドナは少し困ったような顔をして僕を見て、「じゃあ・・」と言って店に戻った。ドナが店に入ってから僕はナオヤに言った「お前、なに緊張してんだよ!ドナはお前には渡さんぞ!」つくづく男って言うのは嫌な生き物だ、と思った。「いや、まさか、あんなにカワイイ人だと思わなかった・・。まっすぅ、絶対あの子と付き合えよ!」と言ってくれたので少し安心した。「そして美恵ちゃんを俺によこせよ」と付け加えたので無視した。

「じゃあな」と言ってモンキーのエンジンをかけて、帰ろうとしたナオヤに僕は言った「ナオヤ、今度のライブはあれだな、俺達、宇宙人にとってのチャックベリーみたいな存在になるかもな」

ナオヤが立ち去ってから、僕はドナという天使のいるカラオケスタジオという楽園へと戻った。

次号、「第19話 靖国神社の昼下がり」に続く・・・

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2006年9月16日 (土)

第17話 教師からへの勝利

ドナという衝撃的な女性にであった事で、僕の高校2年生の一学期はあっという間に消化されようとしていた。うららかな春が劇的な夏へと変わろうとしていたのだ。

小学生6年生の頃にロックンロールに出会ってから5年の歳月が経った。僕はどれくらい成長できているのだろうか。相変わらずロックンロールが好きだし、地球上にある全ての魅力が詰まったものだと思ってる。CD探しのピークは過ぎたかもしれない、今は誰かに教える立場だ。中学生の頃、たくさんの悪さを一緒にした友達とはあまり遊ばなくなり、万引きや暴力的なことはもうしていない。中学生の頃に出会ったマリファナはまだ好きで高校生になっても誰かの家に遊びに行くとぶっ飛んで遊んでいる。高校入学時は童貞だったが、今の時点で3人の女と寝ることができた。美恵ちゃんという恋人もいる。といっても、もはや恋人とは名ばかりの関係で儀式的にデートやSEXをするだけだ。学校の授業には相変わらず消極的だが、教師をからかう趣味はアイディアを出つくしてしまったこともあり、基本的にはおとなしくしている。

高校で特に仲が良いのは、学年のボス的存在の金田、天才的なお笑いの才能を持ったタイラ、中学生の頃からの友達でこっそりドラムの腕を磨いている東条、バンド仲間のカズノリと杉山、女子の番長的存在で渋谷が大好きな小田さん、学年のアイドル亀ちゃん、亀ちゃんの親友で現役モデルのカヤちゃん(カヤちゃんは彼氏だったタッちゃんが亡くなって以来精神病院に通うようになり通学もモデルの仕事もでかなくなったが僕らの励ましに最近立ち直ってきている)、一度肉体関係を持ってしまったアイ子ちゃんとも仲が良い関係だ。あとは同じ軽音楽部の人達、とだいたいが一年生の頃から仲良しだったやつらが今でも仲が良いままということだが、2年生になりクラスが同じになってから新キャラクターと出会った。当時、校内でちょっとしたブームになった麻雀が強くてジャニーズ系の顔をした斎木と、16歳にしてマリファナ、覚醒剤、エクスタシー、LSD、そして僕らも驚いたのだがヘロインも経験していた校内一のジャンキー高林、今はこの二人とも仲良しだ。

僕の一番の親友はナオヤだ。先日、僕とナオヤと高林で、ある事件を起こしてしまった。僕ら3人は授業をサボり屋上へと向かって廊下を歩いてた。屋上へと向かう途中の廊下には同じ階の全ての教室へから離れて死角となるスペースがあった。そこは壁一面掲示物が貼られてある掲示コーナーだ。足立区からのお知らせや、学級会発行の校内新聞や、その他に厚生省からのエイズ撲滅運動のポスターやポイ捨て禁止を呼び掛けるポスターなどありとあらゆるポスターが貼られている。僕は一年生の頃、ここ一面にピンクチラシと呼ばれるエッチなチラシを貼りまくったり、「決起せよ!」といううたい文句とチェゲハラのポスターを貼ったりして騒ぎになるというちょっとしたお遊び場に使っていたこともある場所だ。その時、ナオヤは何を思ったか突然ヘアースプレーとライターでチラシやポスターを焼き始めた。ライターがスプレーのガスで火炎銃のようになり、勢いよく炎を吹いた。僕と高林はあまりの迫力に「おぉ」と歓声をあげて喜んだ。しかし掲示物があまりに勢い良く燃え始め、黒い煙が上がりだしたので、こりゃまずいということになり、僕らは上履きを脱ぎ、火を叩きすぐに消火した。以外にも紙を焼いた火はすぐに消えた。

そんなお遊びを楽しんだあと僕らは屋上へ出た。ナオヤは屋上からの眺めを見渡しながらタバコを吸い、僕は屋上のコンクリートの上で仰向けに寝転び、高林はタバコを忘れてきたと言い教室まで取りに戻った。僕らはさっきの火遊びを何とも思っていなかった。この高校ではそんなちょっとした事件は日常的に起きているからだ。

タバコを取りに教室に向かったはずの高林が青ざめた顔で戻ってきて言った「ひ、ひ、火が消えてねぇ」僕とナオヤが急いでさっきの場所に戻ると、全て消えたと思っていた掲示板の火が勢いをあげて燃えはじめていた。上履きで叩いても消えなさそうな燃え方だった。やばい、と思った瞬間、校内中に火災放置機のけたたましいベル音が鳴り響いた。慌ててナオヤが足元にあった消火器を炎に向かって吹き掛けた。火災放置機は鳴ったがスプリンクラーは作動しなかった。消火器の白煙であたりが何も見えなくなった。消化剤をもろに吸い込んだ僕らは3人そろってゴホゴホと咳をした。気が付くとあまりの騒ぎに教室を飛び出した生徒と教師の人だかりができていた。その人だかりの中の一人の教師が「ぉぉおめぇら、なにしやがったんだぁぁぁ」と怒鳴った。僕はこの時、退学を覚悟した。怒鳴った教師にナオヤが血相を変えて、そのドスの効いた声で怒鳴り返した「ばっきゃやろう!俺たちが消してやったんじゃねぇぇか!」そう怒鳴る事でナオヤは同時に僕と高林に対して、俺たちは加害者ではなく火事を食い止めた英雄として演技しろ、というメッセージを放ったのだろう。ナオヤに続けて僕も人ごみに向かって怒鳴った「誰だぁぁこんなことしたのぉぉ!!出てこい!!」

僕らはそれぞれ別の場所で別々の教師によって取り調べを受けさせられた。教師達は警察を呼ぶつもりはなく、ここで事件を究明し、処分を出して退学なり停学なりの処理しようとしていたのだ。僕は図書室に、ナオヤはコンピュータ室に、高林は科学室にそれぞれ連れていかれた。僕は図書室に向かう途中、「消火剤をもろに吸って吐きそうなんだ」と言ってトイレに寄らせてもらった。そこで僕はナオヤと高林に急いでメールを送った。[口裏を合わせろ オレらは屋上に向かう途中に火災を発見 すぐに消火にあたった 屋上へは授業さぼるためと正直に言え がんばれ]慌てるとメールを打つのがこんなに難しい事なのだ、と僕は初めて知った。教師達はこれから取り調べを行い3人の口実が合わなければ、僕らが犯人と見抜くだろう、図書室に向かう途中に僕はそう考えたのだ。

図書室では3人の教師が僕を取り囲み、まるで刑事のように誘導尋問を行った。その空気で僕は、中学生の頃、公園に鍵が付いたまま停めてあった原チャリを皆で盗んで警察に捕まり、少年課で取り調べを受けた時の事を思い出した。僕らをそれぞれ別々の取り調べ室へと入れられた。少年課の取り調べ室はコンクリートむき出しの汚い部屋で、そこにいると言いようのない惨めな気分になった。その惨め感に耐えられなくなって、捕まった少年達は犯行を自供させられたのだろう。そこでは二人の刑事に取り調べを受けた。一人はヤクザのように怒鳴り散らし、一人が優しい言葉で話し掛けてくる。人の心理を利用した実に巧妙な取り調べだった。あの時はそんな警察の心理攻撃に負け、僕を含め、みんなが犯行を自供をしたが、今回ばかりは放火を認める訳にはいかなかった。中学の頃の原チャリ事件は被害者が温厚な人だったこともあり、厳重注意と指紋をとられただけで済んだが、今回は退学という処分もありえた。こんな楽しい高校生活におさらばするなんて絶対に嫌だった。高校生活が何よりも愛しく思えた瞬間だ。

「増山、今までお前はいろんな悪さをしたがな、今回ばかりは冗談になんないぞ」そう言ったのは体育の教師で生徒指導の阿部だ。「いいから、正直な事を全部言いなさい。」そう言ったのは教頭の関口で、一年生の頃から引き続き僕の担任になった淵江はただただやるせない、というような顔をして僕を見ている。生徒指導と教頭と担任、僕の取り調べだけやけに豪華な顔触れが揃っているのは教師達の誰もが過去の様々な悪事を起こした僕を今回の放火の主犯格だと決め付けていたからだろう。僕はしばらく黙り込んでいた。教師達の取り調べに怖気づいていたわけではなく、怒り狂うか泣きじゃくるか、どちらの行動を選択するべきか考えていたのだ。しばらくして僕は3人の教師を見つめながら大きく溜め息をついて言った「失望しました。俺はあなた達に本当に、心底失望しました。」なんだそれは。と担任の淵江は言った。「俺たちが授業をサボって屋上に行こうとした事は謝ります。でも、そのおかげであの火災を発見して、大惨事にならなかったんじゃないですか。ナオヤはとっさの判断で消火器を使ってまで火を消したんですよ。そんな俺たちが何でこんな目に合わせらんなきゃいけないんですか?正直、頭にくるというより、悔しいですよ、失望しましたよ」できるだけ今にも泣きそうな顔でそう言った。すると不思議なことに言ってる途中で本当に涙が流れてきたのだ。ナイス俺の涙腺!と心の中でガッツポーズをとった。まさかの僕の涙に3人の教師は少しビックリしていた。教頭の関口が言った「君達がやったんじゃなかったんなら、じゃあ誰がやったんだ。犯人を見たのか?見てないだろ?ええ?」見てないです、と僕は言った「見てないです、でもそれが何なんだですか?まさか、そんな理由で僕らが犯人だって言うわけじゃないですよね。・・ふざけるな」僕が少し反抗的な口調になったので淵江が僕をにらんだ。あ、これじゃダメだと思い、すぐにまた泣きの演技に切り替えた。涙はまだ目の下に残っていた。「やめます」僕がそう言うと教頭の関口が「え?」と言った。「俺が火災を消したんですよ、本当だったら俺らは誉められるべきでしょ?それが何ですかコレは?俺にはあなた達が俺らの事を犯人と決め付けてるようにしか思えません。俺はもうそんな学校やめます。でも俺はこの屈辱を一生忘れません。この学校の入試試験に来る受験生に対して、僕は毎年校門の前に立って、この高校には入るな、教師は無実の生徒を犯人扱いするような学校だ、という内容を書いたビラを配ります。毎年欠かさずにです」少し言いすぎかな、という気がしたが、僕の言葉に3人の教師はいくらかダメージを受けてるようだった。「僕らは別に増山が犯人だなんてまだ決め付けていないだろ?急にやめるなんて言っちゃダメだ」生徒指導の阿部がそう言った。あと一歩だ、と思った。「俺を教室に返してください!ナオヤも高林もです。俺らはこの学校の生徒です!俺らには、自分の学校の授業をうける権利もないんですか!?」わかったから、そんなにムキになるな。淵江のその一言で僕は教室へと解放された。教室に向かう途中、教師なんてどいつもこいつもアホだ、と思った。僕の小芝居なんかに負けたのだ、そう思いホッとしかけたが、ナオヤと高林はどうなっただろう、と不安になった。誰か一人が自供したら僕の迫真の演技が無駄になる。僕のメールを見れただろうか。

教室のドアの前ではすでにナオヤと高林が僕を待っていた。「どうだった?」と僕が二人に聞くと、二人とも僕のメールを読んで口裏を合わすことに成功したと言った。お前はどうだった?と高林が聞いたので、僕はニヤリと笑い「楽勝」と親指を立てた。3人が教室に入ろうとした時ナオヤが僕の目元を指差して言った。「どうでもいいけど、なんでお前そんな目が赤くなってるんだ?」

その日、校内放送で、放火事件の目撃者は職員室に来て下さい、なんて放送があったが目撃者は表れなかった。あの時間に教室にいなかった生徒全員の取り調べを行うという噂もあったが、結局それは実行されなかった。この事件は僕らの完全勝利で幕を閉じた。その日以来、教師達の僕ら3人に対しての接し方が緩くなった。

その日も僕はマリちゃんとバイトにはいり、ドナが来るとまた二人きりでカラオケ部屋に入った。その日ドナに貸そうと僕が持って来ていたストレイキャツの「涙のラナウェイ・ボーイ」というアルバムをカラオケ部屋のスピーカで流しながら、今日学校であった事をドナに話した。ドナは僕の話の最中に何度も「それで、それで」と言い、楽しそうに聞いてくれた。「でも、よかったですよ、学校やめなくていいですから」最後にそんな優しい事を言ってくれたが、もちろん僕が取り調べで本当に涙を流した事はドナには話さなかった。

次号、「第18話 チャックベリーと宇宙人」に続く・・・

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2006年9月15日 (金)

第16話 ジェリーの忠告

ユーコトロピアという足立区が誇るその伝統的なライブハウスは梅島駅からすぐの所にある。ユーコトロピアは僕らのような地元のアマチュアバンドから海外からのマニアックなプロバンドまで様々なバンドに愛されている足立区内外でも有名なライブハウスだ。オールスタンディングでも100人も入れば満員になってしまうくらいのその小さいなライブハウスは、僕らも大好きだった。僕らはザ・サピエンスというバンドを結成してから初めてのライブを竹ノ塚にあるダンデライアンでやったが、その初ライブで感触をつかみ乗り込んだ2回目のライブハウスが、このユーコトロピアだった。

そんなユーコトロピアの支配人は皆からジェリーと呼ばれている。支配人はグレートフルデットというアメリカの伝説的なライブバンドを何よりも崇拝していて、ジェリーというニックネームもグレートフルデットのジェリーガルシアから由来している。ジェリーは知り合いのライブハウス関係者や音楽会社の人間に僕らのバンド、ザ・サピエンスを「足立区一のぶっ飛びバンド」と紹介し自分の息子のように可愛がってくれていた。

ある日、いつものようにユーコトロピアでのライブを終えたあと、ユーコトロピアの向かいにある焼鳥屋で打ち上げをしていたらジェリーがやってきた。ナオヤがジェリーの姿をみつけて、「ジェリーさん、おつかれ」と声をかけた。杉山が「今日、僕らどうでした?」とジェリーに聞いた。そして、その日、サピエンスを結成したときからずっと僕らを見てきてくれているジェリーから初めて厳しい意見を言われた。「日に日に、お前らを観に来てくれる客も増えてるし、お前らの演奏もそれぞれ個性を出せるほどに上手くなってる。杉山は始めから上手かったな。ナオヤは最初は個性が薄かったが今は存在感がでてきてる。カズノリは最初へたっぴだったが、今は完璧なまでに上手くなった。まっすぅは相変わらず音程が定まらない歌い方だが、それがボーカルとしてのまっすぅの良いところだ。でもな、なんかあれだぞ、最近マンネリしてきてないか?」ずっと僕らをみてきたジェリーだから言える意見だと思った。マンネリというと、曲がって事ですか?と僕は聞いた。「それもあるがそれだけではない。バンドとしての成長がみえない。バンドが成長するってことは客をたくさん呼べるようになったり、演奏が上手くなることじゃないぞ」どういう事ですか?っとまた僕は聞いた。「俺もそれは言葉では上手く言えないが、なんていうか、俺が初めてサピエンスのライブをみせてもらった時はな、世の中の事を何も知らない高校生の爆発しそうな感じのライブだった、俺もこの仕事をしてるからさ、飽きるほどたくさんのバンドをみてきてるんよ、そんな俺も、お前らをみて、久々におもしろいバンドを見つけたな、って気分になったのよ、お前らは意識してないだろうが、そんな初期衝動のようなものがあったのよ。でも、お前らはそんな初期衝動的なものからまだ抜け出せてない感じがする。わかる?」

ジェリーの言葉に僕らはみんなウンウンと頷いた。でも僕らはこのときはまだジェリーのそんな意見の重大性に危機感を抱けなかったが、ただ一人、ナオヤだけはこの日のジェリーの言葉をずっと忘れないでいたみたいだ。

そんなナオヤがこの日のジェリーの忠告を元にサピエンスの大改革を決意するのだが、それはまだ少し先の話だ。

次号、「第17話 教師からへの勝利」へ続く・・・

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2006年9月14日 (木)

第15話 普通ではない関係

大学帰りのドナが、カラオケスタジオに来るまで、僕はマリちゃんからの冷やかし攻撃を受けていた。

マリちゃんは先週、僕がバンドの練習帰りにカラオケスタジオに突然来たことで、僕のドナに対する気持ちを見抜いてしまっていた。非番の日にバイト先に来ることなんて初めてだったし、僕の態度や言動や表情ですぐにわかったらしい。「あたしが、まっすぅとドナちゃんの恋のキューピットになってあげよっか」マリちゃんはニヤリとした顔で言った。何だかやけに楽しそうだ。他人の恋愛を楽しむ典型的な女だ、と思った。「マリちゃん、頼むから余計なことはやめてくれよ。」僕が泣きそうな顔でそう言うと「クックック」とたくらみの笑いをしてからかった。マリちゃんはキューピットというよりデビルにみえた。もうすぐドナが、このカラオケスタジオにバイトの手伝いに来てくれるというのに、マリちゃんが変な感じの空気を作ってしまったら、と思うと嫌だった。

とはいえ、僕はマリちゃんに対して心底心配してたわけではなかった。マリちゃんは、僕の通う青井高校とほぼ同じレベルの馬鹿校の新田高校の3年生の女で、このカラオケスタジオにバイトとして僕が入ったときからの仲良しだ。一見、クールに決め込んだ無口な人にみえるが、実は明るい性格で、顔もなかなかの美人だったので、一時期ぼくはマリちゃんに恋しそうになったが、ドナがあらわれて以来、そんな気持ちは僕から完全に吹っ飛んだのだ。マリちゃんは勉強は苦手そうだが、人の事を正しく観察できる頭の良さをもっていた。そんなマリちゃんだから、ドナがいない時にはこうして僕をからかっているが、ドナが来てからは普通に接してしてくれると信じていた。

でもそんなマリちゃんに対して心配な事が一つあった。「マリちゃん、ドナさんに恋愛の話とかしないでね。例えばほら、韓国には彼氏がいるの?とか、今好きな人はいるの?とか増山のことどう思う?とか、そういう事は聞かないでくれよ。」傷つきたくないから?とマリちゃんは聞いた。「傷つきたくないというか、知りたくないんだよ。知っちゃったら嫌なんだよ。」でも、とマリちゃんは言った「でも、普通は好きな人の事を知りたいって思うんじゃない?そりゃ、知らなきゃよかった、って事はあるかもしれないけど」「何も知らないほうが幸せなんだよ。俺はそういうタイプなんだ。俺は手品とか見ても、あとで種明かしとかされるとシラけるんだ。演劇とかでもそう、劇を見るのは好きなんだけど、劇団員が必死にレッスンをしてる日常の場面を見るのと何故かよくわかんないんだけど、俺シラけちゃいの。わかる?」「ん~、何となくわかる、だけど変だよ、それ。」

僕とマリちゃんがそんなやり取りをしていると、ドナがやってきた。

このカラオケスタジオには、従業員の休憩室など無くて、カウンター裏のスペースが僕ら店員の居場所だ。そこに3人も従業員がいると、さすがに狭かった。そもそも、この店は一人か二人のバイトでやっていくのが普通で、3人もいるなんて僕がここに勤めてから初めての事だった。この日、3人態勢にしたいと言ったのは僕だ。正確には、僕のお願いでマリちゃんがリコに頼んでくれた。ドナと二人っきりになるのも良いが、マリちゃんという第三者がいるというのも心強くて安心できる気がしたのだ。

僕は昨日行われた新宿でのライブの話を得意気にドナにしてた時に、ドナとの約束を思い出した。ギターとベースだ。ドナは店に入って来たときから手ぶらだった、忘れたのかも、と思ったが、そのことを言いだせなかった。「忘れたの?約束したのに」なんておこがましいことは言えなかった。しかし、ドナの方からそのことを思い出してくれた。「あ、この前、増山さん、見たいと言ってました、ギターとベースですね、それあります」と言いカウンター裏の清掃用具入れのロッカーから、ギターとベースを入れた黒いソフトケースを二つ取り出した。いつの間にこんなとこに・・と思った。

ギターはグレコのGTシリーズで、派手で高価そうなやつだ。ベースはフェンダーのプレシジョンでピックガードが暗めの青いカラーでペイントされていた。僕はバンドをやっているが、楽器に関する知識はなかった。どうせ楽器を使うわけじゃないんだから、と興味が向かなかったのだ。だいたいのボーカルは最低限の知識はあるもんだが、僕みたいなバンドマンは珍しい。そんな僕でも、ドナのギターとベースはお遊びで持つような安っぽい物ではないという事はわかった。

僕はドナのグレコを傷つけないよう慎重に持ち、「とんへぇむる がぁ ぺっくとぅさん~いっ」と韓国国歌をでたらめなコードで弾いた。僕の悪ふざけに、ドナは笑いプレシジョンのベースを指で弾いて合わせてくれた。「韓国国歌をエレキギターで弾く、はじめての人」と言ってまた笑った。そんな二人の様子を、興味なさげな顔でマリちゃんが見ていた。「カラオケ部屋行って遊んできなよ。今日も暇だし。ほら、ドナちゃんも!」恋のキューピットになる宣言をしたマリちゃんが突如そんなファインプレーをみせた。

カラオケ機からマイクのコード線を引っこ抜き、ギターケースの中に入っていたシールドを差し込んだ。音質はイマイチだがちゃんとスピーカーからギターとベースの音が出た。ドナはベースを、僕はギターを抱えて、小さなカラオケ部屋のL字型ソファーの隅にそれぞれ座った。ちょうどいい距離感だった。向かい合うわけでもなく、横に並ぶわけでもない。人間を一番美しく見せる距離と角度だ、と思った。ドナが足を組み、その上に抱えているベースを控えめの音量で、何かの旋律を弾きながら、ありがとう、と言った。「CDプレーヤーとイギー・ポップ、ありがとう。あたし、もらうの、本当にいいですか?」いいんだ、もうたくさん聞いたし、録音もしてあるし、何よりドナさんに聞いてほしかった。と言うと「でも、CDプレーヤー、安いのではないと思う、いいの?」と僕を気遣ってくれた。「俺、MDプレーヤーを買ったから、どうせもう使わないんだ。だから気にしないで、もらっていいよ。」ドナにあげたそのポータブルのCDプレーヤーは中3の時に、中学校の近くにあるホームセンターの倉庫にみんなで潜入した時に段ボールこど盗んできたやつだ。中学生の頃、僕らはよく窃盗をやったもんだ。ホームセンター、スーパー、デパート、レンタルビデオ屋など、ありとあらゆる所で、ありとあらゆるものを万引きで手に入れていた。今考えればよくあそこまで派手にやったもんだ、と思うが、幸運なことに誰一人捕まった者はいない。つぶれたボーリング場にボーリングのピンと、ボーリングボールを盗みに潜入したときに、誰かに通報され捕まりかかったことがあったが、なんとか裏口から逃げた時以外に捕まりそうになったことはなかった。そんな僕の汚れた青春時代の戦備品のようなものを、好きな女にあげるのはどうかと思ったが、あの日、突然ドナに何かをプレゼントしたい衝動になり、とっさにカバンの中にあった、あのCDプレーヤーを渡してしまったのだ。イギー・ポップもたまたまその時そこに入っていただけだった。

ドナは相変わらず何かの曲の旋律を小さな音量で弾いていた。誰に聴かせるでもなく、指が淋しくて自然と弦を弾いてしまう、という感じの、いい演奏だった。その旋律はどこかで聴いたことがあるような気がしたが、よくわからなかった。

「どうだった?イギー・ポップは?聴いた?」と僕は聞いた。「あの後、帰ってすぐにですね、聴きましたよ。驚く曲です。驚いて、驚いて、それから感動しました。1番の曲と、2番の曲と、3番の曲、好きでたくさん聴きました。」ダウン・オン・ザ・ストリートとルーズとT.V.アイの事だろう。この人の感性は僕とよく似ている、僕はドナみたいに美しいムードはないが、思いをはせるものや感動するものが共通しているような気がした。その時、ドナがさっきから控えめに弾いている曲が、ダウン・オン・ザ・ストリートだということに気付いた。スローテンポで小さな音で、しかもベースラインだけで、それまで気付かなかったが、たぶんそうだ。あの日、僕があげたCDの一番始めの曲だ。あの日からの一週間程で、ドナは完璧に、しかも話をしながらでも自然に意識しないで弾けるくらいになっていたのだ。僕はドナの弾いているベースを指差し「ダウン・オン・ザ・ストリート・・」と言った。ドナは少し笑みを見せて「そういうタイトルでしたね」と言った。

ドナは僕を喜ばせるために弾いているわけでもなく、弾けることを自慢しているわけでもない、スピーカにつないでエレクトニックな音がでるのを楽しんでるわけでもないし、自分の演奏に酔っているわけでもなかった。本当に自然に、ほとんど無意識に弾いているのだ。僕はドナのギターを抱えているが、今、ドナがしているような弾き方は絶対にできないな、と思った。僕は、バンドをやるようになってから、たくさんのバンドマンと知り合うようになった。アマチュアからインディーズプロまで、たくさんの知り合いがいる。だから演奏の上手いと下手は普通の人よりもより正確に理解できるつもりだ。上手い演奏とは、ミスがなく正確な演奏というわけではない。そこにプラスアルファーなテクニックを活かせる演奏が上手い演奏なんだ。今、ドナは本意気で弾いてないにしても、決して上手いとは思わなかった。だけど、ドナの演奏は僕の心をもて遊ぶかのような魅力があった。上手いとか下手とか、そんな事をどうでもよく思わせる演奏だ。

この日もドナは僕にたくさん話をしてくれた。バスケットボールを見るのが大好きだというドナがNBAの話をしたとき興奮して韓国語で喋りだしたり、僕にカラオケを歌ってほしいという要望したが、バンドで歌うのとは違いカラオケで歌うのは苦手だから、と言って断ったり、ユニクロという日本の安いブランドメーカーに感激したという話をしたり、韓国人でも犬を食べることに抵抗のある人はたくさんいて、自分もそうだという話をしたり、宇宙人にレイプされたという友達がいたという話をしたり、日本語のサ行をどうしてもタ行で発音してしまい、日本語を覚えたばかりの頃は苦労したという話をしたり、そんな無邪気な話で時間は滑らかに溶けるように過ぎていった。

話と話の間に何度も沈黙があった。それは、出会ったばかりの男女が狭い空間で二人きりでいるという気まずさからの沈黙ではなかった。むしろ、とても心地のよい沈黙だ。そして不思議なことに僕は少しも気まずいとは感じなかったし、それはドナも同じだろう。たしかに僕らは出会ったばかりの二人だが、なにか遠い昔からお互いの存在を知っていて、ここで出会うことを約束していたかのような、そんな気がした。少し恥ずかしいが僕はこのとき「運命」という言葉を少しだけ信じてしまった。

もうすぐ夜勤組のバイトの人達と交替する時間になった。さっきドナが、おなかすいた、と言ってたのでこの後食事に誘おうと思った。「ねぇドナさん、リコさんの家は門限とかあるの?」と僕は聞いた。「門限」という日本語を知らなかったみたいなので、もう一度わかりやすい言葉に直して聞いた。「そういうのはない、私、もう子供ではないですよ」「じゃあ、後で牛丼を食べに行こう。日本が誇る吉野家に。おなかすいたでしょ?」本当はもっとおしゃれな所に誘いたかったが、手軽なとこではなかったら断られてしまうのではないかと思ったのだ。いいですよ行きましょう、とドナが言ったときカラオケ部屋の壁にある呼び出し電話がなった、マリちゃんからだ。僕が出ると「お客さま、まもなくお時間でございます」と言った。

カラオケ部屋から出た後、ドナはマリちゃんに、お客さんが着たら呼んでくれればよかったのに、とかそんなっことを言ってマリちゃんに気遣いをみせていたが、マリちゃんはそんなことはどうでもいいという顔をしていた。マリちゃんはドナに聞こえないように小さな声で「どうだった?どうだった?」と僕に感想をしきりに聞いてきた。マリちゃんは自分のことより、他人の恋愛のほうが興味あるようだ。マリちゃんのそんな感じが少し邪魔くさかったが、憎めなかった。

僕らはカラオケスタジオを出て、帰り道、マリちゃんと別れた後、ドナを連れてカラオケスタジオから少し行ったところにある日光街道脇の吉野家に行った。オレンジの下品な看板の民衆的食堂は、ドナのムードとどこかアンバランスだった。ドナはこの時、始めて吉野屋に来たらしい。僕は「並、汁ダク、卵付き」を2つ頼んだ。ドナは韓国人らしく、自発的にキムチも注文した。店内には中年の男女のカップルと、サラリーマンの男が一人いた。そこに僕らの様なバイト帰りの男女がいる。周りから見ればいたって普通の光景だが、それが僕には非現実的な感じがした。それはドナのかもし出す、その普通ではない不思議なムードのせいだろう。ふいに僕は「普通」という事について考えてしまい、ドナにそのことを聞きたくなった。「俺は中学生の頃からずっと大人たちに、普通の人間になりなさいって言われ続けてきたんだけど、普通って何なんだろう?」あまりに唐突な質問だったが、ドナは答えてくれた。「普通・・・ハングルのポドン・・・・う~ん、普通なんて事はほとんど無い。無いに近い言葉、と思う」ドナがそう言うと、牛丼が2つ運ばれてきた。どういう意味?と僕は聞いた。「一人、一人、普通という意味は違う。だから、普通になりなさいという言葉、変です。共通ではないんです。共通の普通なんて、ありえない。私の日本語でわかります?」うん、わかるよ、ドナさんのいう事は正しいと思う。僕がそう言うと、ドナは吉野家のキムチを一口食べてさらに続けた「例えば、このキムチの味、このキムチは韓国では普通ではないです。でも、日本人にはこのキムチは普通の味です。だから、韓国のキムチの普通と、日本のキムチの普通は違う。じゃあ、普通のキムチって何?て思いますね」と言った。僕にはドナが何を言いたいのかよくわかった。誰の視点で物を見るのかによって普通という概念は変わる、だからみんなが同じように思う普通なんて、この世には存在しないという事だろう。「俺にとってドナさんは普通じゃない」と言うと「私もです」と言って僕を指差し笑った。俺にとってドナさんは普通じゃない、なんてとっさに言ってしまったが、すぐに私もです、と答えたドナに僕はドキっとして、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。

別れ際に、僕はドナにたくさんCDを貸してあげるという約束をして、ドナはそれを楽しみにしていると言ってくれた。ドナが帰り、一人になったとき「普通かぁ」とまた思った。出会ったばかりの国籍も年齢も違う男と女が、バイト中に密室のカラオケ部屋に二人きりになり、ギターとベースをいじり、バイト帰りに大衆食堂で牛丼を食べながら、お互いのことを普通の存在ではないと言い合い、別れ際にRockのCDを貸す約束をする、というのはきっと普通な二人ではないだろう。ドナと出会ってから僕には何もかもが非現実的に思えていた。こんな思いにさせてくれる女性は他にはいないだろうと思った。

次号、「第16話 ジェリーの忠告」に続く・・・

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2006年9月11日 (月)

第14話 ある気持ちのいい夜のこと

僕らはライブの日が近くなると、学校の部室での練習時間だけでは不十分になり、リハーサルスタジオで夜遅くまで練習をやる事にしていた。スタジオは足立区中にたくさんあったが、僕らは決まっていつも綾瀬の「スタジオRED」を利用していた。REDのスタジオは狭くて、器材も古かったが、学生割引がきいたし、店員の松林さんがたまにジュースをおごってくれたりしたので、予約がとれなかった時以外は必ずREDを使っていた。

その日、僕らは新宿でのライブを間近にひかえていた。夜の9時くらいにREDでの練習を終えて、ファミレスに行こう、というナオヤ達の誘いを断って、僕はそのままバイト先の「カラオケスタジオ」へと自転車を走らせた。僕はこの日、いつもより声が出て歌えたし、新曲の出来にも満足のいく音ができた。バンドとして最高に調子がよく、僕の気分も最高に良くなっていた。こんな気持ちのいい日は、好きな女に会いに行きたくなるもので、僕は恋人の美恵ちゃんの住む千住にではなく、ドナがいるかもしれない「カラオケスタジオ」のある五反野に向かったのだ。今日のバイトはマリちゃん一人なので、もしかしたらドナが手伝いに来ているかも、と思ったのだ。ドナと一緒にバイトしたあの日は、2日前のことだ。しかし、僕にはその2日間が2年間のように感じていた。人はよく印象深い日の事を「昨日の事のように思い出す」なんて言うが、僕はあの日を、遠い昔の事のように思い出せていた。

「カラオケスタジオ」に着くと、僕は自転車にまたがったまま店内を覗き込んだ。やっぱりドナはいた。マリちゃんと楽しそうに何か談笑していた。客のいる雰囲気はなく、店も暇そうだ。僕が店内に入ると二人とも、何しにきたの?という顔をした。「いや、あの、たまたま前の道を通りかかったからさ」とマリちゃんに向かって言った。ドナは黒のロンTと薄ピンクのTシャツの重ね着に、チェックのスカートにマーチンのブーツタイプの靴を履いていて、恐ろしく綺麗だった。「ドナさん。俺、今度ライブがあるから、今週は練習でしばらくバイトでれないけど、次は一緒にでようね。その時、この前話してくれたベースとギターも見せてね。マリちゃんも一緒にでようよ、3人いれば心置きなくサボれるでしょ?リコさんにシフト調節お願いしておいてね。」それを聞いて「ヘイヘイ」と不適な笑みを浮かべてマリちゃんは言った。僕がドナに気があることを悟って、それを茶化すような表情だった。

僕が到着して、すぐに夜勤組のバイトの人と交代する時間になってしまった。ドナと少ししか話しはできなかったが、僕は満足だった。途中まで3人で歩いた。マリちゃんは荒川沿いの梅田という街に住んでいる。ドナはカラオケスタジオの裏道を少し行ったところにある、親戚のリコが住む豪邸に居候している。僕は、環七を北に越えた所にある六町という街に住んでいる。店を出て少し歩くと、すぐにマリちゃんとは違う方向の道になり、僕はドナと二人きりになった。ドナの住んでるリコの豪邸までの距離は短い。だけど、ドナと二人で歩けばその道は永遠に続く。終わることのない時間を感じる。

リコの家の前で僕はイギー・ポップ&ストゥージズの「ファン・ハウス」というCDが入ったままのポータブルCDプレーヤーをドナに差し出し「あげるよ」と言った。ドナは一瞬困った顔をしかが、中にCDが入っていることに気付いて「CD入ったままだよ」と言った。「そのCDもあげる。聴いてみてよ。かっこいいからさ」そしてドナは笑いながら言った「ありがとう。帰ったら聴くね、何のCD?」「イギー・ポップ&ストゥージズのファン・ハウスっていうアルバムだよ。デトロイト生まれのイギー・ポップのバンド。ロックのテロリストみたいな感じ」ドナは、テロリスト?と言って笑い、もう一度ありがとうと言って玄関の中に消えていった。

その日は何もかもが気持ちの良い夜だった。夜の星に、東京の星達は自信なさ気に光っていた。そして、暗い夜の中でも堂々としている月。同じ夜空にあるのに星達と月では、別の世界のものに見えた。ドナはこの夜の月みたいな人だ、と思った。

自転車をこぎながら、リコの家で「ファン・ハウス」の1曲目のダウン・オン・ザ・ストリートを聴いているドナを想像した。僕とドナが一つのものに繋がった気がして、それが何だかとても嬉しかった。

次号、「第14話 普通ではない関係」に続く・・・

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2006年9月 9日 (土)

第13話 インチョンから来た女

次の日、僕は珍しく一限目から学校に来ていた。昨日、ドナから「韓国の高校生は増山君みたいに遊びまくっていない」と言われ、その事がきっかけで、これからはまじめに授業を受けよう、と思ったわけではなく、図書室で調べものをしたかったからだ。つまり、やっぱり授業には出席していなかった。どうせもう、教師達も一限目には増山はいないもんだ、という事くらいわかってくれてる。彼らは、最低限の出席日数がなれけば、お前の将来に影響する罰を学校としても与えなければならくなるんだ、と言うが、そんな脅しは、僕には何の効果もなかった。僕の将来に影響する罰とは、つまり進級ができなくなったり、卒業ができなくなったり、退学になったりする事を意味しているのだろうが、出席日数の足りない教科は、補習を受けさえすれば実際どうにかなった。事実、こうして僕は1年生から2年生に進級できている。補習の時だけ、勉強すればいいのなら、僕はよろこんで授業をサボらせていただいた。第一、退学になろうとも、退学なんかに影響されるような人生など、はなから望んじゃいない、という信念と自信が僕にはあった。教師というのは、ならず者の生徒に対して、できるだけ屈辱感と不安感を与えようとしてくる。そうして、みんなが守る共通のルールから外れる者を何とか阻止しようとする。彼らの武器は「常識」だ。活発な青春をおくる高校生に、「常識」などという古くて、力のない武器など通用するわけがなかった。

そんな反社会的、かつ革命的な精神とポリシーに基づき、僕は毎日、一限目の授業の出席を拒否し続けていたのだ。っというのは嘘で、たんに朝早く起きるのが嫌だったからだ。退屈な授業のために、眠い朝を我慢できるなかったのだ。しかし、この日は、一刻も早く調べたい事があって、普段はやっと家で眠りから覚めるというこの時間帯に、僕は学校の三階の奥にある、この図書室に来ていたのだ。

[朝鮮半島地図Ⅰ]という大きく、分厚い地図帳の最初のページの見開きには朝鮮半島が描かれいた。

朝鮮半島をちゃんと見たのはこの時は初めてだった。朝鮮半島の形は、まるで大陸から垂れ下がる尻尾の様だ、と思った。その、尻尾の様な形の半島の真ん中には、不自然な境界線が引かれていた。その境界線を境に南側がドナの国、韓国で、北側が北朝鮮だ。地図には、北朝鮮を朝鮮民主主義人民共和国、韓国を大韓民国という正式な国名も表記されていた。なぜ、元は一つの国だったのに、今は二つに分かれることになったんだろう。この時の僕は、まだそんなことさえ知らなかった。朝鮮戦争もベトナム戦争もアメリカの南北戦争も、なんで同じ国の中で、敵と味方とを作り、争ったりしたのか、そういった歴史的知識が僕にはなかっだ。僕は自分に関係のないことを何も知らないまま、平和な日本でのんきに暮らしてきたのだ。何か、それがある意味でとても恐ろしいことのように思えた。自分は無知だ、と思った。無知とはとても惨めなことなのかもしれない、この時、僕はそう思った。こんな事を思うのは初めてだった。今までは、自分が無知だろうがなんだろうが、そんな事どうでもいい、自分に関係ない事なんて知りたくもない、と思っていたのだ。ドナという異国の女性とのに出会いは、そんな僕の何かを変えた。ドナにはそんな人の何かを変える不思議な力があった。

あとで、朝鮮半島の歴史をちゃんと知ろう、そう決めて僕は朝鮮半島の南側の国、韓国の地図が詳しくのっているページを開いた。

首都のソウルから少し西側に僕の探してた街はあった。インチョン(仁川)だ。そこがドナが生まれ育ったという街だ。僕はどうしてもドナが育った街のことを少しでも知りたくて、いつもより一時間も早く家を出て図書室に来たのだ。ドナは昨日、私はインチョンで生まれて育った、という事だけしか教えてくれず、その街の事を自らは話そうとしなかった。故郷を思い出して感傷的になりたくなかったのだろう。

[朝鮮半島地図Ⅰ]の説明書きによると、インチョンは釜山に次ぐ韓国第2の貿易港都市で、国際的な街らしい。絶えず外国の文化が入ってくるこの街でドナは育ったという事だ。韓国がロックンロールの貧土だということは常識だ。それでも、ドナは違った。ドナはジョップリンの話に目を輝かせるとても異質な韓国人だ。インチョンという国際的な街が、ドナにそんな感性と知識を育てたのだろう。それは、日本でも同じだ。小さな頃から刺激の少ない田舎街で育った人間と、刺激の多い街で育った人間とでは感性が違う。刺激の多い街で育った人間は、本当に素晴らしい物と、そうでない物の違いがわかる。知識としてわかるのではなく、感性としてわかるのだ。日本人とは元々、温厚な農耕民族で、貧しく素朴であることを美としてきた民族だ。だから演歌やフォークソングなんかがこの国にはよく似合った。ところが安保闘争や、機動隊が軍隊並に増強された学園闘争、ベトナムを攻撃する米軍が日本のあちこちの米軍基地から飛び立っていた60年代、そんな日本中に混沌とした刺激が満ちていた時代にビートルズはやってきた。そこから日本の若者の何かが確実に変わった。刺激がビートルズを呼び、ビートルズが刺激を呼んだのだ。そして、異文化交流の盛んなインチョンという国際港の街が、ドナという不思議なムードの女性を育てた。ビートルズが日本の若者の感性を磨いたように。

「インチョンかぁ」と何かに思いをはせる気分で僕は一人つぶやいた。一限目の授業が終わりかけていた2年3組の教室に入っていった。僕は進級してクラスが変わってもナオヤと同じクラスだった。窓側の一番後ろの自分の席に着くなり、隣に座っていたナオヤにクラス中の皆が振り向くようなデカイ声で言った。「おい!ビートルズは偉大だぞ!」

次号、「第14話 ある気持ちのいい夜のこと」に続く・・・

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2006年9月 7日 (木)

第12話 「また、あえる?」

その日、軽音楽部の部室でいつもの様に、バンド練習をしていたが、僕は時計が気になってバンドに集中できないでいた。今日はカラオケスタジオという僕のバイト先に、あの人がやってくる。昨日、後輩の女の子に「サイテー」と言われた事などすっかり忘れていた。バンド練習を終えて、僕は部室にある全身鏡でヘアースタイルを念入りにチェックしていた。「ナオヤ、どう?キマッてる?」僕は真剣だった。バラの花束でも持っていきたい気分だった。「おう、まっすぅ、キモってる、キモってる」ナオヤのそんな野次をシカトし、「じゃあ、諸君、また明日」と部室を飛び出し、カラオケスタジオに向かい自転車をこぎだした。今日のバイトは僕一人で入っていた。このカラオケ屋は人手不足で、こうしてバイト一人で入る事がよくあった。邪魔者はいない、あの人と二人っきりだ、そう思うと、カラオケスタジオへと続く、いつものコンクリートの道がお花畑にみえた。

途中、いつもの様に、経営者のリコという女の家に寄って、店の鍵と、つり銭を受け取り、店を空ける。リコの家に行ったとき「今日は6時か7時くらいになると思うんだけど、この間紹介した、ドナちゃんが手伝いにくるからね、仕事内容は一通り教えてあるんだけど、なんせ今日が初仕事だから、どうしても、わかんない事とかもあると思うからさ、増山くん一人でドナちゃんに教えるのも大変だろうから、今日は私も手伝いにいこうと思うんだ。」リコの言葉に僕は焦った。せっかく、あの子に会えるのに、経営者のリコなんかいたら、最悪の邪魔者じゃないか。「いや、リコさん。大丈夫ですよ。僕一人でちゃんと教えれます。今日は月曜だし、お客も少ないと思いますよ。教育係になったつもりで責任持ってがんばります。僕はそういう責任というものを持って、自分自身も成長させたいと考えているんです。これは、僕が責任感のある大人になるためのチャンスだと思っているんです。だから本当にリコさんは来なくても大丈夫です。任せてください。」祈る気持ちでリコを説得し、納得させる事に成功した。「わかった。じゃあ、増山くんに頼んだよ」リコはそう言ってくれた。

「6時か7時かぁ」僕はカウンターで、ニタニタしていた。6時まではあと一時間はあった。何の話をしよう、きっと難しい日本語じゃわからないからな、あぁ韓国語を勉強しておくんだったな、そういえば韓国の事もあまり詳しくない、会話に必要な情報収集をしておくべきだったなぁ・・そんな事を一人でぶつぶつ言っている時に、客が入ってきた。こんな早い時間に客が来るなんて珍しいな、と思い「いらっしゃいませ」と言おうとした瞬間、体が氷ついた。

入ってきたのは客ではなかった。そこに立っていたのはドナだった。まだ5時なのに、こんな早く来るなんて、心の準備はできていなかった。「あ、どうも、早かったですね」最初に話し掛けたのは僕の方からだった。ドナは髪を後ろに束ね、白いシャツに、ロングのスカートの下に細めのジーンズを履いていた。まるで日本のファッションだ、と思った。ドナは一瞬笑顔を作り「あ、ハイ。よろしくお願いします、今日は、手伝いで、ハイ、マスヤマさん、デスね」と言った。「あ、えぇ、うん。あの、よろしく。名前、覚えててくれて嬉しいです」これが、僕とドナの初めての会話だった。

あぁ、なんて美しい人なんだ。一通りお互いの自己紹介を終えて、カウンターの椅子に座るドナに見とれながらそう思った。もっとガチガチになって、話もまともにできないかもしれない、と思っていたが、意外にも僕はリラックスしていた。「ドナさん」僕は話し掛けた「この前ドナさん、赤いライダースジャケット着ていたね、とても似合ってたよ、素敵だった」ドナは自分が誉められたという事に気付いて笑顔になった。「ありがとございます。あれはね、日本で買ったよ、ハラジュク、高かったのですが、買いました、店、セクシー・・えっとセクシー・・」セクシーダイナマイト、と僕は言った。「あ、そうです。セクシーダイナマイト、マスヤマさん、よく行きますか?」よくは行かないけど、知ってるよ。原宿は好き?「人、たくさんですから、少し、大変、でもお店とてもいいのは、好き」

そんな会話をしながら、小さい頃、日本旅行に来てからずっと日本に憧れていたこと、中学生の頃から日本語を勉強したこと、高校では日本文学部というものに所属していたこと、兄が二人いること、父が食品会社を経営してること、母が昔モデルをしていた事、今は両親からリコを経由して仕送りを貰っていること、などの話をしてくれた。そして、僕の話もした。小学生の頃にRCサクセションというバンドのCDを聴いて衝撃を受けたこと、中学生の頃たくさんの悪さをしていたこと、高校にはいってバンドをしてることを話した。

「バンド!?」と彼女の大きな目が輝いた。「ロックンロール?」うん、もちろん。と答えた。「ギター?」違う、ボーカルなんだ。「ボーカル、アイゴー、素敵」

彼女は高校生がバイトをしたり、バンドをしたりする事が信じられなかったようだ。「韓国では、高校生ですね、ずっと勉強です。マスヤマさんのようなのは、韓国の高校生は少ないです。だから、驚き」と言った。ドナさん、音楽は好き?「韓国のポップミュージックとかはですね、あまり好きではないです。日本の音楽もですね、韓国は、たくさんは聴く事、難しいですが、アムロナミエとかミスターチルドレンとか知っていますが、あまり好きではありません。私はジョップリンが好き、ジャニス・ジョップリン。本当に好きです。知っていますか?」

彼女の口から「ジョップリン」という人物名が出てくるなんて、と興奮した。僕もジョップリン大好きだよ!クライベイビーとかサマータイムとか大好きな曲だよ。「わぁ本当に良いです。あと、ムーヴオーバーも本当に良いです。韓国ではですね、ジョップリン知っている人、とても少しです、日本は凄いです、日本で有名ですか?」有名ではないが、好きな人はたくさんいる。そういえば、ドナさんは、ジョップリンに似ているね。あと、ジャニス・イアンにも似ている、パティスミスにも似ているよ。ドナさんはロッククイーンに似ているよ。と、言った。それは本心だった。彼女の美しさは、ジョップリンやジャニス・イアンやパティスミスの美しさに似ていると思った。それは、何かを悟った女性がみせる美しさだ。希望とか絶望とか喜びとか悲しみとか、そういうモノをつらぬいて、向こう側にある何かを見て、悟った者がもつ美しさ。そんな美しさを持っているからこそ、ジョップリンやジャニス・イアンやパティスミスはロッククイーンなんだ。

「ドナさん、楽器はできるの?」僕にそう聞かれ、少し肩をすぼめて彼女は言った「ピアノはね、子供の時に、やらされてた。ギターは兄さんの影響ありまして、少しできます。あと、ベースも少しです。」

似合っている、と思った。赤いライダースジャケットも、セクシーダイナマイトという店も、今日のファッションも、ジョップリンも、ピアノもギターもベースも、全てドナに似合っていると思った。この人は自分に合うものだけを取り入れ、自分に似合わないものは自然と排除できるのだろう。自分に合うものだけを取り入れるという事は、実は難しく、頑固なまでのアイデンティティーがなければならない。そんな女性は少ない。彼女がなぜ美しく見えるのか、その原因が少しずつ明らかになるような気がした。

「兄さんはバンドやっていたの?」と僕は聞いた。「一番上の兄さんはやっていました。サンウオッパ。よくライブを見に行きました。スタジオにも遊びに行きました。でも、軍隊に入ってからやめてしまいました」。徴兵制度ってやつ?「そうです、チョーヘーセードです」

韓国には徴兵制度という、成人男性が強制的に軍隊に入隊することを義務付けられた制度があることは知っていたが、改めて韓国人の口から「徴兵制度」という言葉を聞くと、何かさびしい気分になった。「私はあなたとは国籍が違う人間なんだよ」と言われたような気分になり、さびしく思えた。

兄さんの、あ、サンウオッパのバンド練習のとき、ギターとベースを覚えたの?「そうです。オッパはベースでしたが、ギターも上手でした。私が日本にくるとき、私にくれました、ギターとベースをです。」へぇ~、じゃ、大事にしないとね。今度僕にも見せてくれないかい?オッパとドナさんの、その大事なギターとベースをさ。「よいですよ。この店に持ってきて、置いていきましょう。」

彼女は笑顔でそういったが、何かさびしい目をしているように見えた。兄さんのことを思い出していたのかもしれない。「今度、僕らのバンドの練習に来なよ。スタジオここから近いからさ。ライブにも来てよ」僕は彼女にそう言おうとしたが、やめた。彼女の、そのさびしそうな瞳が、ゾっとするほど美しかったからだ。あんなに美しい目をしている女の前では、男は言葉すら失う。

ドナとの時間は4時間程だったが、僕には時間の感覚がなかった。あっと言う間に時間が過ぎる、とかそういう事ではなく、時間の感触がない空間にいたような感じだ。夜の10時になり、僕らは夜勤の人と交代して店を出た。彼女が住んでいるリコの家まで送って行った。別れ際、彼女は僕の方をみて「また、あえる?」と聞いた。同じバイト先で仕事をしているんだからまた会えるに決まっているのに、なんでそんな事を聞くんだ、と不思議に思いながら、「もちろん。またね。」と言って、玄関に入る彼女を見送った。家の中から「おかえり~」という日本語と「オソオセヨ~」という韓国語が聞こえた。僕は、またあえる?という彼女の言葉の意味を考えていた。またね、ではなく、なぜ疑問系だったのだろうか?わからない。わからないが、僕はとても幸せな気持ちになった。何かプレゼントをもらった時のような幸せな気分だった。彼女が入っていった玄関を見つめながら呆然としている自分に気付き、僕は自転車のペダルをこいだ。

次号、「第13話 インチョンから来た女」に続く・・・

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2006年9月 6日 (水)

第11話 サイテー男のバラ色人生

ドナと出会った次の日、僕は学校のいつもの非常階段で、ナオヤに目を輝かせてこう言った。「昨日、すごい女に出会ったんよ。あれは時間にして5分くらいだったかな?俺はその5分で、永遠の恋を確信したよ。ほら、ブランキーの赤いタンバリンの様な、そんな女だよ。いや、それ以上だな。たまらんのよ、ナオヤく~ん」ナオヤはラッキーストライクをくわえながら「おい、まっすぅ、気を付けろ、お前のそのキラキラした目はな、、なんて言うか、キメえ」。キメえとは下町の若者言葉で、きもい、という意味だ。隣で話を聞いていたタイラがマヌケな顔で僕に聞いた「そんなに美人なのか?元3組の女神よりもか?」進級してクラスが変わったので3組の女神は、'元'3組の女神と改名されていた。くらべものにならんな、僕はタイラに真顔で言った「元3組の女神とか、あんなのとはくらべものにならんな。そりゃ亀ちゃんは、誰にも負けないかわいさを持ってるし、カヤの美人さも天下一品だし、美恵ちゃんは・・まぁ美恵ちゃんの事はいいとして、とにかく、昨日のあの人はね、かわいいとか美人とか、そういう次元を通り越した人なのよ。なんていうか、こう、オーラがさ、美しいオーラが出ててさ。あんなオーラは元3組の女神からは出てないもん。わかるかな、タイラくんよっ」。つまりあれか、タイラが言った「つまりあれか、フェロモンっちゅうやつだな」フェロモンが出ている、確かに近い表現だが、違った。僕はタイラに言った「違う。フェロモンとは違う。フェロモンだったら亀ちゃんの方が出てるね。タイラ、お前にはわからんかもよ、美しいオーラっていうのはな、頭とチンポを正しく使っている人間にしか見えないんだ」そんな僕の暴言を聞いていたナオヤが笑いながら言った「まっすぅよ、頭はともかく、お前のチンポは正しく使われているんか?イチゴちゃんを口説いておいてよく言うわ」。痛い事を言われた、と僕は思った。

イチゴちゃんとは、軽音楽部の新入生で、猫目のかわいい後輩だ。名前はユリだったが、イチゴのようにかわいい女の子だったので、僕はイチゴちゃんというニックネームをつけた。「増山先輩のボーカル素敵ですね。日本人で増山先輩みたいな歌い方する人、うちは知らないもん。うちもボーカル希望なので、いろいろと教えて下さいね」と言われた。かわいい子に「いろいろ教えてくださいね」なんて言われて欲情しない男はいない。僕は美恵ちゃんとデートしようと用意していたディズニーランドのチケットをイチゴちゃんに渡した。「一緒に行こう。そしてイッツスモールワールドを見てこよう。イッツスモールワールドはディズニーランドの核の部分だ。スプラッシュマウンテンとかビックサンダーマウンテンとかエレクトニカルパレードとか、そういうのはあくまでもオマケのアトラクションで、一番知るべきとこはイッツスモールワールドの世界にある。ディズニーランドがバンドだとすると、ボーカルとはイッツスモールワールドなんだよ。イチゴちゃん、行くべきだ、僕と二人で行こう、夢の国へ!」僕の誘いをイチゴちゃんは満面の笑みで断った。しかし、僕は決してクドく、うざがられないよう細心の注意を払いながらイチゴちゃんを口説き続け、ついにディズニーランドのデートの約束をとりつけた。ナオヤは、美恵ちゃんという彼女がいながら、必死に後輩の子にアタックする、そんな僕の惨めな姿をみていたのだ。僕はただ皆に、昨日会ったドナという女がいかに素敵な女だったかを伝えたかっただけだったが、いつの間にかイチゴちゃんの件の弁明になってしまっていた。

「ナオヤよ、おいナオヤさんよ、君はなにか勘違いしてるみたいだけど、俺はイチゴちゃんの事をセックスの対象としてなんか見てない。ガキだよ、ガキとして見ていてだな、決して汚らわしい事はない!」と、嘘をついた。

ドナと出会ったことで、イチゴちゃん対する僕の恋心なんて偽物なんだと気付いてしまっていたが、キスやセックスは恋とは別物だと思った。ディズニーランドでのデートで、なんとかイチゴちゃんのハートを射止めることに成功した。アイ子ちゃん、美恵ちゃん、に続き、3人目のセックスをできる相手、そのチャンスも逃すわけにはいかなかった。その日の夜、僕はイチゴちゃんの家に行き、彼女の家族に声を聞かれないよう注意しながら、そっとイチゴちゃんにキスをし、服を脱がした。イチゴ大福のように柔らかい彼女の体を抱いてるときに、僕はある女性の顔を思い出した。それは恋人の美恵ちゃんではなく、ドナの顔だった。明日はバイト先でドナに会える事になっていた。店を手伝いにくる、とリコが言っていた。

イチゴちゃんとのセックスをやり終えて、お互いの体に付いた精液をティッシュで拭きあいっこしてる時、僕はイチゴちゃんに正直な事を言わないといけない、という思いにかられ、僕には美恵ちゃんという恋人がいる事、そして、その恋人以上に思いをはせている女がいること、イチゴちゃんとの肉体関係はこれっきりにするべきだという事。僕の話を聞き終えてイチゴちゃんは、「サイテー」と小さな声で言い、精液で濡れたティッシュを僕に投げた。追い出されるようにイチゴちゃんの家を出て、自宅へと歩いた。まだ体にイチゴちゃんの精液が付いたままだった。夜の風に吹かれながら、イチゴちゃんが言った「サイテー」という言葉を思い出して、独り言を言いながら笑った。「最低?最高の間違いだろ?人生はバラ色だよ。バラ色だよイチゴちゃん。明日はドナとどんな話をするのかと考えるだけで、人生がバラ色だという事くらい俺にはわかるぜ。わかるんだよ、イチゴちゃん。」

その後、イチゴちゃんは「ポップコーンポップ」という女の子バンドを組んだ。僕とナオヤはポップコーンポップに楽曲を提供したりし、サピエンスの妹分、というキャッチコピーを引き下げ、僕らと一緒によくライブするようになった。しかし、イチゴちゃんと僕の間には、あの夜以来ぽっかりと空いた溝があり、仲は良かったが、どこか距離をおいた冷めた関係が元に戻る日はこなかった。

次号、「第12話 「また、あえる?」 」に続く・・・

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2006年9月 5日 (火)

第10話 本物の恋

ドナと出会ったその時間は一瞬でもあり、永遠でもあった。僕は自分という存在の、その全てが彼女のあの大きな目の中に吸い込まれるような、そんな感覚を感じた。

結局あの日は、リコが僕らにドナを紹介しただけで、ドナとリコは、すぐに行ってしまった。店を出るその瞬間まで、何故かずっと彼女は、にらみつけるような目で僕を見ていた。こうしてまた、隣にブーちゃんがいるだけの現実に戻ってしまったが、しばらく僕は軽い放心状態が続いたままでいた。「なんか、増山くん、にらみつけられてたみたいだったね。アハハハ。。それにしてもさ、かわいい子だったねぇ」と、かわいいという言葉とは無縁の豚女のブーちゃんがそう言ったが、僕は「んぁあ」とほとんど無視して返事をして、一度外したヘッドフォンを再び耳にあてた。そして「赤いタンバリン」を何度も何度も聴いていた。あの瞬間、突然現われたドナという女の目を見た瞬間、僕は初めて「恋」という言葉の意味を知ったような気がした。昔から、女の子を好きになることなんて何度もあったが、それは本物の恋ではなかったのだ。恋や愛という言葉や、女の子という存在や、好きという感情、キスやセックスという欲求…今までは、これらの目に見えないものに対して恋をしていただけで、相手に対して恋をしていたのではなかったのかもしれない。相手の事を思うと胸が痛くなり夜も眠れない、そんなものは本物の恋ではない、と思ったし、ある日突然気付いたら好きになっていた、なんていう恋も偽物だ、とも思った。恋をするのにそんな時間はいらない。本物の恋の始まりは、本来全て一目惚れなんだ。彼女と目があった瞬間、彼女の目から電気信号のようなものが空気を伝い、僕の心臓を突き刺す、そのゼロコンマ何秒の世界が、恋の始まりで、そこからガン細胞が浸食するかの様に身体中に広がっていく。そして、その細胞は死ぬことがなく、ずっと僕の身体の中を生き続ける。彼女のいた時間は、ほんの4~5分程度だったが、僕は今後一生彼女を好きでい続けるのだろう。そう確信した。これは間違いなく、一生で一度きりの、人生最大な本物の恋なんだ、と思った。本物の恋をすると、放心状態になり、彼女の事を思っても頭が真っ白になるだけで、不安や恐れなどのネガティブな感情はなく、自分自信を含め全ての未来を好きになる。「赤いタンバリン」を何度も聴きながら、そんな事を思っていた。たまたま、あの瞬間に、ヘッドフォンから流れていたこの「赤いタンバリン」という曲は、偶然にも、そんな恋の歌だった。「人は愛し合うために 生きてるっていう噂 本当かもしれないぜ」そんな陳腐で、安っぽい歌詞が、僕を奮い立てた。

バイトから帰った僕は、熱を出してダウンした。冗談みたいなはなしだが、確かに体温計は38度を計測していた。その夜、布団の中でうなされながらも、ずっと「赤いタンバリン」を繰り返し聴いていた。「ドナさんかぁ。。あぁ。。ドナちゃん。。」小さな声で、そう口に出すと、また汗が出た。

次号、「第11話 サイテー男のバラ色人生」に続く・・・

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2006年9月 3日 (日)

第9話 運命の女は赤いタンバリンに包まれて

「カラオケスタジオ」このセンスのないネーミングのカラオケ屋が僕のバイト先だった。リコという名前の、在日韓国人の女が個人経営する小さな店だ。五反野駅前の商店街の脇道にある2階建ての建物が、この「カラオケスタジオ」だ。1階には受け付けや、会計などをするカウンターと、比較的広いカラオケ部屋が2室。2階に狭いカラオケ部屋が6部屋ある。従業員はほとんどがアルバイトで、経営者のリコは滅多に来ない。

勤務時間は二部に分かれていて、夕方から夜までの日勤組と、夜から明け方までが夜勤組だ。僕は高校生なので日勤組だ。日勤組のバイトは、僕のほか、新田高校生で1歳年上のマリちゃんと、30歳ちかい小太りな女性の福原さんだ。福原さんは、豚のような顔をしてたので、僕とマリちゃんは影で「ブーちゃん」と呼んでいた。

小さな店で、夜になるまでは、二人か一人のアルバイトが出勤することになってる。客が来たら入時間をレジに記録し、客を部屋に案内し、ドリンクやアルコールや食べ物の注文を受ければ作って持って行く、客が帰るときはレジで会計をして、部屋を片付ける。と、仕事はとても簡単で、夜になるまで、客はほとんど来ない。だから経営者は、高校生二人や一人に任せるんだろう。一人の時は気楽で好きだった。カウンターのテレビでビデオを見たり、本を呼んだり、店のジュースを飲んだり、タバコを吸ったりして、くつろげて好きだった。二人の時でもマリちゃんと一緒ならばそれなりに楽しくてよかった。マリちゃんは少し暗いが、かわいい八重歯をみせる笑顔が素敵だったし、1歳年上というだけで、僕には何か刺激的だった。ブーちゃんと二人のときは最悪だ。ブーちゃんの話は退屈で、何よりも僕は醜い女は嫌いだった。だから何を話し掛けられても「はぁ」「へぇ」「ほぉ」としか答えなかった。運命の日は、そのブーちゃんと一緒に出勤していた日に訪れた。

僕はブーちゃんとの退屈な会話をしたくなかったので、ヘッドフォンでCDを聴きながら本を読んでいた。突然、ブーちゃんが僕の肩を叩いた。「おい、酢豚野郎、汚い豚足でさわんじゃねぇ」と心の中で言いながら顔を上げると、この店の経営者のリコが立っていた。僕は慌ててヘッドフォンを耳から外した。「なんで、こんな時間に?いい加減に仕事してるのがバレちまった。クビにされるのかな・・」と思いながら、何か言い訳はないか、と頭をフル回転させていた。しかし、リコは注意をしなかった。リコの後ろに一人の女が立っていた。

その女は赤いライダースジャケットを着ていて、不機嫌そうに店内をキョロキョロと見回している。リコが紹介した「この子、ドナちゃん。ピョ・ドナちゃんって言って、韓国にいる私の叔母さんの旦那さんの兄弟の子。つまり、少し遠いけれど親戚の子。今年から市ヶ谷の大学に通うことになって、しばらくはね、アタシんちで一緒に暮すの、で、たまに皆とね、お店の手伝いもやってくれるから、よろしくね。日本語も上手なんだよ~、ねっ」と紹介した。彼女は軽く会釈をし、僕とブーちゃん向かってに言った「ハジメマシデ、アタシ、韓国カラ来テェ、名前ピョ・ドナ、デス・・・・」
隣のブーちゃんは「はじめまして。私は福原。よろしくね~」なんていいながら、汚い笑顔を浮かべていたが、僕はそのピョ・ドナという女を見てから動けなくなっていた。顔中の筋肉が縮み、変な笑顔を作った。「はじめまして。。。あの。。増山と言います。。あの。。ほら、、、あの、、なんか、、わからないことはさ、俺に聞いてね。。なんでもさ。。うん、なんでも。。」壁や足元や、指先を見ながら、そう言うのがやっとだった。「あ、、、ハイ。」その子はそう言って、何か珍しい生き物を見るような目で僕をジーっと見ていた。自分が汗を流してるのがわかった。春先の涼しい日だった。「一目惚れだ・・」彼女の姿を見たときから心臓が騒がしくなっていた。「一目惚れってこんな感じになるのか」そんなことを思った。ドナという女が、この世の者とは思えないくらいに美しくみえた。赤いライダースのジャケットがこんなに似合う女がこの世にいたなんて知らなかった。こんな吸い込まれるような目をした女がこの世にいたなんて知らなかった。こんなに美しいオーラを放つ女がこの世にいたなんて知らなかった。さっきから挙動不振な僕をみて、リコが笑いながら何か言っているような気がしたが、その時、僕にはリコの声がとても遠く感じ、何を言ったのか、わからなかった。時間がスローモーションになり、ドナという女の姿しか目に入らず、この世の全ての音が聞こえなくなったような気がした。

ただ一つ、ハッキリと聞こえた音があった。僕の首から下がっているヘッドフォンから漏れていたブランキージェットシティーの「赤いタンバリン」という曲だ。

2000年の3月の終わり頃、僕は運命の女と、こうして出会った。死語かもしれないが「運命の女」としか表現できない。その女が、今後の僕の人生の運命そのものだったからだ。今でも、あの時のヘッドフォンから洩れて流れていた「赤いタンバリン」の甘酸っぱいメロディーを、僕は忘れられないでいる。

次号、「第10話 本物の恋」に続く・・・

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2006年9月 2日 (土)

第8話 時間にせかされて

あっという間に僕は、高校1年生から2年生へと進級した。入学してから、1年間が本当にあっという間だった。

バンド結成から1ヶ月で、オリジナル楽曲を10曲以上作り、初ライブをした。その後月に1~2回のペースでライブをした。「ダンデライアン」「ユーコトロピア」「クロウドフィッシュ」「エディーラウンジ」・・・足立区にあるライブハウスにはほとんど全て出つくしていた。。ライブが近くなると「RED」という貸スタジオで連日練習した。オリジナル楽曲もたくさん作り、いったい何曲あるのか自分達でも把握しきれていなくなるほどに。気づけば、青井高校で一番多忙なバンドになっていた。軽音楽部の学園祭での出し物はもちろんライブだが、会場は2箇所あった。視聴覚室と体育館だ。1年生で、まだまだ実力のないバンドは視聴覚室でやらされる。僕らのバンドは1年生にして体育館で、しかもトリだった。3年生の部長のヨウ君が、僕らに体育館ライブでのトリを譲ってくれたのだ。ヨウ君は「グレンジェネシズ」というカッコいいバンドをやっていて、メジャーデビューも近く、僕らは尊敬していた。そんなヨウ君は、高校を卒業した後、「グレンジェネシズ」を一時解散させ、メンバーを入れ替えてインディーズデビューをしてプロになっている。

夏休み明けの始業式の日、僕は学校裏の公園に、ある女性に呼び出されていた。そこにいたのは、僕が「3組の女神」と名付けていた3人のうちの一人、ミュージカル劇団に所属していた美恵ちゃんだった。夏休み前にケータイ番号とメールアドレスを交換して依頼、僕らは夏休み中連絡をとっていた。でもまさか、告白されるとは思っておらず、意外にも戸惑っている自分がいた。というよりも、告白したのは僕の方からだったんだけどね。公園で1人待っていた美恵ちゃんの顔を見て「告白される」と本能的に察した僕が、「実は、俺、美恵ちゃんの携帯番号をさ、電話帳のさ、ジャンルってあるじゃない?そこのさ、恋人ってジャンルにさ、美恵ちゃんのね、番号をね、登録しようと思うんだ、いいだろ?」こうして、僕は美恵ちゃんと付き合うことになった。ミュージカルとダンスをしていて、ナースになりたいと言う、かわいらしく優しい。そんな子なので申し分ないはずなのだが、なぜか僕はずっと戸惑っていた。その戸惑いの原因が、あれから7年たった今でもわからないままでいる。

冬休みの頃、僕は五反野駅前の小さなカラオケ屋さんでバイトすることにした。友達でそのカラオケ屋に遊びに行ったとき、「アルバイト募集」とだけ書かれた張り紙を見た。何かバイトを探していたので、カウンターに座っていたバイトの女子高生に、バイトしたいと伝えると、オーナーを呼んでくれ、その日のうちに面接をした。オーナーは40歳近い女だったが、美人で、とても若く見えた。リコという名前のそのオーナーは面接で「ここは、在日韓国人の経営する店だけど、君はそのことに抵抗はないか」と聞かれた。「ないです」と答えて、適当な志望動機を言った後、明日から来てくれと言われた。

もうすぐ2年生になるという頃、友達のタッチャンが死んだ。猛スピードでバイクを走らせている時、ハンドル操作を誤って交差点の壁に激突して即死だったらしい。タッチャンの彼女だったカヤは、精神をやられ、しばらく精神病院に通ったらしい。僕らだって精神病になりそうなくらいショックを受けていたが、みんな笑っていた。タッチャンのお通夜の帰り、僕らは、泣きじゃくったり、気分が悪くなり、嘔吐したり、ただうつむいてフラフラ歩いたり、そんなズタズタの状態だった。そんな皆に向かって「タッチャンはお前らのそんな姿なんて、みたくないよ。あいつは、お前らのいつもの小汚い笑い声を聞きたいに決まっている。あいつはお前らの笑い声が好きだったんだ。」と言ったのは金田だった。そして、僕は「アッハッハハ!タッチャン、地獄で暴れてこいよ!アッハッハハ!」とデカイ声を出し、それをきっかけに、みんな泣きながら笑い、フラフラなりながら笑い、ゲロを吐きながら笑った。その姿をみて、タッチャンの暴走族仲間の奴らにシメられた。みんなボコボコにやられた。僕も立てないくらいにアチコチ痛くて痙攣して、血が出て、それでもいつまでも僕らはでかい声で笑った。ボコボコにされた僕らの上から雨が降ってきた。「おい、タッチャンが嬉し泣きしてるぞ!」誰かが言った。僕らはそのまま朝まで立てないでいたが、笑うのはやめなかった。

そんなたくさんの事があり、高校1年生の1年間はあっという間に過ぎていった。時間が僕らをせかしている様に感じた。2年生になり、僕は「何かが変わる。もうすぐ、とんでもない事が起きる」そんな予感に支配されていた。

次号、「第9話 運命の女は赤いタンバリンに包まれて」に続く・・・

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2006年9月 1日 (金)

第7話 初体験

僕らのバンドの初ライブの日は、ナオヤの中学からのバンドのラストライブになった。あの日を最後に、ナオヤは中学からのバンドを抜けた。理由は、僕らのバンドの方がやってて楽しいから、というものだった。もし、自分抜けることを前から決めてて、わざと二つのバンドを同じ日にして、ラストライブと初ライブを一日で味わおう、とか考えていたとしたら、あいつはかなりのナルシストだ、と思った。どちらにしろ、僕らのバンドから抜けられたわけじゃなくて、よかった。

あの日、3組の女神は、結局、ライブ終了後の打ち上げには来なかった。不尽で幼い考えだが、僕は3組の女神の3人とならば、誰でもよかった。その時は、15歳で童貞で、女の子と付き合ったことがなかった。これは別に嘆くことでもなければ、誇れることでもなかった。女の子と付き合うチャンスはこれまでに何度かあった。小学校の頃は、自分でもよくわからないが、よく告白された。でも、僕を好きになってくれる子は、なぜか皆、・・・な子ばっかりだった。中学校ではまったくモテなくなった。一度、ムラニシという年上の友人に紹介され、横浜に住んでいた同い年の子とデートしたことはあった。アメリカ人の母をもつ彼女はキューピーちゃんみたいな、とってもカワイイ、ハーフの子だった。キューピーちゃんの自転車で二人乗りして、中華街を走った。その後、山下公園で「俺は手相がみれるんだ」と嘘をいって無理やり手をつないだ。でもキューピーちゃんは手を振り払おうとしなかった。色白の顔が赤くなるのを見て、「抱きしめよう」と本気で思った。が、できなかった。結局、キューピーちゃんと会ったのはこの日だけだった。その後何度か電話で遅くまでお話をしたりしたが、結局横浜まで行くことはなかった。交通費がなかった。お金は全部CDや、ライブに使い、キューピーちゃんを抱きしめる事よりも、ロックンロールのCDを買うことの方が重要だと思ったし、キューピーちゃんとのキスよりもロックンロールのライブチケットの方が魅力的だと思ったのだ。しかし、清純な少年が、女の子に興味がないわけがなかった。3組の女神のうち、カヤに手を出すことは無理だった。友達のタッチャンの彼女だったからだ。亀ちゃんにも、中学のときから付き合っているという彼氏がいるらしいが、あまり重要なことではないと思った。美恵ちゃんに関しては、一番可能性があった。

でも、僕が童貞を捨てた相手はカヤでもなく、亀ちゃんでもなく、美恵ちゃんでもなかった。夏休み直前の7月の土曜日、飲み会の帰りに酒に酔った僕と、4組のアイ子ちゃんという子は、ふざけて千住西口のホテルに入ってしまった。アイ子ちゃんとは、2回目のライブを梅島の「ユーコトピア」というライブハウスでやったときに観に来てくれていて、仲良くなった。飲み会というか、合コンのようなその会まで呼んでくれるようになり、そこであやまちを犯してしまった。ブサイクではないが、特別かわいいわけでもなく、嫌いではないが、好きでもない。そんな子とやってしまったのは明らかにあやまちだった。しかし、酒に酔って、頬っぺたをピンク色にし、うつろな目で上づかいで見られ、ホテルを指差し「・・・行ってもいいよ」なんて言われたら、あやまちだろうが何だろうが行かないわけには行かなかった。ホテルのソファーで濃厚なキスをされた時、「慣れてる」と思った。やり終わった後になって「彼氏がいる」ということを聞かされた。

SEXをしたからといって、その後、それ以上の関係になったわけでもなければ、友達じゃなくなったわけでもなかった。アイ子ちゃんはその後、高校を卒業してすぐに、子供を産んだ。今でも時々、彼女から「こんなに大きくなったよ」と自分の子供の写メールを送ってくる。僕は一度も返事を返したことがない。

次号、「第8話 時間にせかされて」に続く・・・

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第6話 ダンデライアン

ダンデライアンは、竹ノ塚の駅から少し離れた場所にある雑居ビルの二階にあったライブハウスである。そこには中学生の頃から,僕は、中学生ぽくない服装で、一人で通っていた。当時は、デパートで万引きをしたり、校舎に性器のイラストや、気にくわない先生の身体的侮辱などの落書きをしたり、単独の暴走族をつかまえて、袋叩きにし、縄で縛り、真冬の公園に放置したり、マリファナや睡眠薬のドラッグでキマり、徹夜でバカ騒ぎをしたり、公園にいる目障りで不愉快なホームレスに消火器をブッかけたり、駅前で自転車や原付を盗んで乗り回し、飽きると綾瀬川に投げ捨てたり、そういう事を一緒にやる仲間はたくさんいたが、地元のライブハウスに、アマチュアバンドのライブを一緒に見に行ってくれる友人は一人もいなかった。そんな場所に、今は一緒に見に行ってくれるどころか、一緒にステージに立ってくれる仲間がいる、ということが何よりも嬉しかった。「いつか、武道館でライブをやろう」なんて恥ずかしげもなく目を輝かすようなクソバンドは、今でも吐き気がするが、当時の僕は確かに「いつかダンデライアンでライブをやろう」なモードにいた。

そんなダンデライアンでの初ライブは、バンド初練習の日から一ヵ月ちょいたった6月の日だった。ナオヤは相変わらず、僕らのバンドと、中学の頃からのバンドを掛け持ちしていた。ダンデライアンの初ライブの数日前にも、違うライブハウスで、その中学の頃からのバンドでライブをしたらしい。僕にも見に来てくれよ、と誘ってきたが、当然断った。ナオヤが自分達の他にも、その才能で輝いている、と思うだけで不愉快になった。ナオヤがそのバンドの話をするのも嫌だった。初めてナオヤと会話した日の非常階段では、あんなに僕を興奮させた中学からのバンドの話も、メンバーとして一緒にバンドをする事になってからは、そんな話は聴きたくなくなった。恋人の浮気に対する嫉妬とはまた違った種類の嫉妬だろう。メンバーのカズノリも、杉山も同じ気持ちだろう。ナオヤが、僕らのそんな感情を知ってか知らずか、僕らのバンドは、彼の中学からのバンドと、対バンする事になったのだ。「ふざけんな!お前が二つのバンドでやるなら、俺らは、その日のライブはキャンセルだ!」と怒鳴ってやりたかったが、やめた。僕らの初ライブを、例の3組の美女達も見にくると、カズノリから聞いていたからだ。学年一のアイドルな亀ちゃんと、ナース志望のかわいらしい美恵ちゃんと、モデルのカヤが見にきてくれるというのに、そんな素敵な日をキャンセルするほど馬鹿ではなかった。

持ち時間は約三十分。9曲やって、時間が余ったらもう一曲やるつもりだった。6つのバンドが参加するライブで、僕らの登場は3つ目だった。気に食わなかったのは、ナオヤのもう一つのバンドがトリだった事だ。僕らのライブが終わったら、ナオヤを残して3組の女神達とさっさと打ち上げに行ってしまおう、と本気で考えた。

ライブ当日、僕とカズノリと杉山は、初めてナオヤのもう一つのバンドメンバーにあった。ナオヤが一人一人紹介してくれたが、みんな名前が思い出せない。3組の女神達は、カズノリの言ってたとおり、僕らのライブを観にきてくれた。金田や、その友達のよく知らない人などや、まったく知らない人などでこの日、ダンデライアンは賑わっていた。

僕らの出番の、一つ前のバンドが終わろうとした時に、僕は強烈な緊張に襲われた。不思議な事に、初ライブの日が決まった、とナオヤから聞かされたときから、その瞬間まで、僕は少しも緊張することがなかったのだ。そのちょっと前まで、「3組の女神の誰かと今夜、一発できるだろうか、無理だろうか、どうだろうか」という想像に支配されていたが、その瞬間、そんなことは頭から消え去っていた。カズノリも杉山も、この瞬間、同じような緊張感を味わっているのではないか、と思った。彼らも、こんな大勢の人の前でのライブは初めてだっただ。慣れているのはナオヤだけだった。ナオヤだけは、リハーサルも涼しい顔でやり終え、ライブハウスのスタッフとセッティング調整の話も、当然のようにしていた。

今、まさに僕らの順番がまわってこようとした時、緊張感が身体中を駆け回っていた。そう言えばこんな緊張なんて、しばらくしてなかったな、と思った。この緊張は何かに似ている、と思った。かわいい女の子と二人きりになったときとの緊張とも違うし、パトカーに乗せられたときの緊張とも違うし、中野でヤクザに拉致され、車で連れ回されたときの緊張とも違うし、高校の入試のときの緊張とも違った。その緊張は、小学校の演劇会で、魔王の役をやったときの緊張感だった。あの劇は一生懸命練習して、真剣に取り組んでたな、と思い出した。中学生になると、まじめに何かやる、という事がクソみたいに思うようになっていた。当時もクラスで劇をやったりすることはあったが、本番で、ふざけたアドリブを言ってメチャメチャにしてやろうと、たくらんでいたり、練習は当たり前にさぼったりで、一生懸命になって、がんばる事なんてなかった。今の僕は、小学校で魔王の役をやったときのような、純粋な気持ちだったあの頃に戻っているんだな、頑張ってるだ、緊張の中にもそんな感傷を感じていた。

そして、そんな緊張と感傷の中、ステージに上がり、マイクスタンドの前に立った。

杉山の「ワン ツー スリー フォ」という口合図で、一曲目「ザ・サピエンス」というタイトルの曲の演奏が始まった。この瞬間、僕の身体から、さっきまであった緊張や感傷は一瞬にして吹き飛んでいった。かわりに、頭の中で、ドーパミンが破裂した。ステージの床が抜けるんじゃないかと思うくらいに飛び回り、アンプを蹴っ飛ばし、観客にツバを飛ばし、完全に自分が何者なのか忘れるくらいに、暴れまくり、歌いまくった。あっと言う間に、全曲をやり終えた、気付いた時には拍手や口笛の歓声が聞こえた。3組の女神なんて、どうでもよかった。小学生の頃の純粋な気持ちなんてどうでもよかった。ナオヤのバンドに対する嫉妬なんてどうでもよかった。

6月のダンデライアン。その夜はまだ初夏だというのに、とても暑かったのを覚えている。

次号、「第7話 初体験」に続く・・・

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